欲求っていうと日本人はなんだか「しちゃいけないもの」というふうに思いませんか?

なんだかわがままに思えたり。

でも欲求は誰でも持っているものですね。

それはぜんぜん悪いことではありません。

こどもを見ていると欲求だらけですね。

「おなかすいた」

「眠い」

「テレビみたい」

「遊びたい」

「あれほしい」

「抱っこしてほしい」

あげたらきりがない。

一日中欲求しているようにみえませんか?

それはとっても健康なことです。

人間はみな、最初に「欲求」が満たされなくては次のステップに進めません。

自己主張が受け入れられてこそ、相手の自己主張も理解できるのです。

もし、自分が受け入れられなかったら?他人の欲求を受け入れることはできないでしょう。

あくまでもこれは経験ですが、所有欲についてお話します。

こどもはみなわがままです。

でもわがままと聞くと「イイ感じがしません」ね。

では自己主張とよびましょう。

A君が遊んでいたおもちゃをB君がとってしまいます。

A君は遊び始めたばっかり、泣きだしてしまいました。

さて、親はどうするでしょう?

日本では

A君、B君のお母さん同士できまずくなったり・・・親だけで解決しようとしたり、

B君のお母さんが「A君に返しなさい!」としかったり、しまいには取り上げてしまうかもしれません。

この場合、どちらかが悪いということではありません。

こどもは「おもちゃが使いたい」という欲求をもっていて、それが対立してしまっただけです。

そんな時、気まずくなる必要もないのです。

フランスではこんな時、大体子どもの年齢が2歳くらいの場合はA君のお母さんは

「もうちょっと使ったら貸すね。」とB君にいうかもしれません。

もしくは子ども同士に任せてしまうお母さんもいました。

人間は「所有」してからでないと手放すことはできません。

さんざん遊んだものであれば執着なく手放せます。

自分が自由に遊んだ経験があれば、みながが自由に遊ぶことを許します。

ですから「まずは自己主張」して、自分の願いをかなえる。

フランス人は日本人から見たら「自己主張」が強いといえます。

子どもの頃はとくにそう感じます。

親も「子どもの当然の欲求」と受け止めていますから、こどもは公園にいったら

他人のおもちゃでも借りて遊びます。

私もよく息子と公園にいきましたが、フランスではこどもたちはみな親の護衛つきで

遊んでいます。(11歳まで子どもだけで外出はできません)

こどもたちは公園で思う存分遊びます。他人のおもちゃもどんどん使います。

ときどき持って帰る子もいるので気をつけましょう!

でもたいていの子どもは一生懸命遊んでいても「もう帰るから返して」というと

返してくれます。

もしくは私が子どもの使っていないおもちゃをもっていると

「マダム、そのおもちゃ貸してください」といってくるこもいます。

時には「もう帰るから貸せないの」ということもありましたが、「そう」ととくに気を悪くされることもあり

ませんでした。

アラブ系のこどもたちはおもちゃをあまりもってこないで、借りるの専門のこもいました。

でもそれでも公園ではいつもそれなりにおもちゃがあふれ、時にはなくなることもあったけど、

みんな幸福でありました。親同士で気まずくなることもありません。

それは「みなが同じように自己主張」して遊んでいたからだとおもいます。

しかし、日本では「かして」「いいよ」という関係がスムーズにいかないと親もプレッシャーなのか

気まずくなりがちです。

フランスでは「かして」「やだ」はよくあることなので、こどももめげなくなる。

親も「こどもが自分の思うように行動しなくてもよい」とおもっています。

私は息子が3歳までフランスで育児をして、確かにいろいろ困ったこともありましたが、

社会における「育児のプレッシャー」はありませんでした。

「ノン」といってもいいので、子どもが「ノン」といっても誰も気分を害しません。

「当然の権利」なのでしょうね。

私たちに日本人は「欲求」をかなえることが下手なのか、それとも抑圧しているのか

「自己主張」は「わがまま」とおもわれがち。

でも私はそうおもいません。

まずは「自己主張」していいとおもいます。

こどものころは特に「自己主張」すれば「願いがかなう」ほうがずっといいとおもう。

それはもちろん「親の許容を超えない範囲」になるのでしょうけど、

願いがかなう経験は多いほうがいい。すると「自分は幸せ」だと感じることもできるからです。

それにはまず「親自信」が自分の欲求をみたすことから始まります。

とりあえず自分の「欲求」とはなんなのか考える。

それがなんとか叶うようにしてみる。

満足出来たら、こどもの欲求が受け入れられる満足感を理解することができるのではないかなと

おもいます。

こどもについつい厳しく当たってしまうお母さんはだいたい自分に厳しい人です。

まず「温かいコーヒーが飲みたい」ならば洗濯物たたむのなんてあしたでもいい、

まず、ゆっくりすることからですね。

眠いなら、家事は明日でもいい。

とにかく自分のわがままを自分がきいてあげる。

私はちょっとだらしないんですが、家がきたなくなっても休んだり、本を読んだりしています。

ご飯も作りたくないときはあんまりつくらない。

そうしているうちにまたチャージできるのか、原動力になるような気がします。

「欲求」とりあえずちいさなものからみたしてみる。




2009.11.17 Tue l 育児 l コメント (1) トラックバック (0) l top
こんにちは、

週末は月一の「チャクラ講座」にいってきました。

今回は第3チャクラがテーマで、またいろいろなワークをしました。

第3チャクラは「パワー、意志、自尊心、アイデンティティー」がテーマです。

ここも弱いかもしれないな・・・。

実際に自分に本当に自信をもって生きるって難しいと思っていました。

でもこどもには「自信」をもってほしいとおもっていた。

自信ない母親が子どもに自信もたせるってどうかな〜?できるんかいな?

とも疑問でした。

実際に私も口では「自信」という言葉をつかいながら、それはいったいなんなのか、

悩んだ時期もありました。

こどものころから「あんたは口ばっかり」「無責任」「反抗的」といわれてきたので、それが

「私」であるとおもってきたけれど・・・それって本当なのか?

それをワークの中で「自己肯定」するのですが・・・。

私は自分のイメージは「支離滅裂」なんですね。

でもみんなで肯定的にいってみようという話になり

「それは楽しいってことでは?」

「新鮮とか?」

「頭の回転が速いとか?」

・・・。

なるほど。

もしそういう風に思ってもらえるのであればありがたいことです。

昔はよく母親から「自信」を奪われないように、なにかネガティブなことをいわれると

「そんなことないもん!私、ちゃんとしてるもん!!」

といってきました。(笑)

母親は「自分をほめること」はよくないというタイプだったので、私が自分に自信を持っていると

「調子にのるんじゃないよ!」と喝をいれられてました。

だからどんなに頑張ってもなんだかまだまだ上があるきがして、頑張ることが面倒になったり

やる気をうしなったりしていました。

学校でいいことがあっても、悪いことがあってもいつのまにか親には話さなくなり、

「共感」してもらうことはほとんどなかった。

いい気分でうちに帰ってくると「歌なんかうたってるんじゃないよ!」とか?(怖いね)

でも今となってはそういう風になっちゃう親の気持ちもわかるんで、「疲れていたんだな」と

過去に母に声をかけます。(イメージの中で行います)

私たちは多くの場合、パワーを他者から奪って生きています。

毎日毎日パワーゲームをしています。

親子では「私のこと、どうでもいいのね?母さん!」といって離れていくふりをして

かわいがってもらおうとか。

お母さんが子どもに「どうしようもないこだね。」といってこどもがしゅん・・・とするのをみて

「いい気味だ」とおもうこともそうです。

配偶者を無視することも、パワーを奪っています。

友達と話をする中でも「なんだか疲れたな・・・」と思うときはやっぱりパワーを奪われています。

私はこどものころからずっとうつ病だった母にパワーを奪われてきました。

(母が悪いとはおもっていません)

ワークの中では「パワーを奪ってきた人に、あげていたのはあなたです」と言われたときに

「ああ、私があげていたんだな。断ってもよかったんだ。」とおもいました。

ペアになって「もう二度とあなたにパワーをあげません。」といったとき、何気に「ああ、言えました」

とおもいました。

「あげたくない」とおもいながらもどこがで「母親を元気付けたい」という気持ちもあったとおもいます。

そうやっていつも傍らに「ネガティブ」なものがあり、それらと付き合っていく、バランスをとることも

私には必要なことなのかもしれません。

最後に「ありがとう。もうあげないよ。」と言ってワークは終わりになりました。

今まで奪われてきたと嘆いていたけれど、パワーを垂れ流しにしてきたのも私なのです。

それを私は知りませんでした。

垂れ流し、禁止。

しかるべき所へ!!

こうしてワークをしていく中で、みんなそれぞれいろんな気持ちを持って生きているんだなと思いました。

みんなとシェアする中で、そういう気持ちもあるんだね・・・とお互いに共感したりして生きていけたら

いいなとおもいました。

子どもの気持ちって複雑で分かりにくいけど、「そういう気持ちもあるんだね」っていつも

共感してあげられたらいいなっておもいます。

今、親業とチャクラ講座を並行して受けていますが、これからの仕事に何らかの形で

影響があると思います。

親であることは昔は「こどもに模範をしめさねば!!」とか意味無名な「責任感」があったのです。

それがチャクラ講座に参加することで、「親である前に人間」という気持ちが強くなってきました。

確かに親業のようにできればいいなっておもいますが、家庭のなかでここまで「技巧的」に

会話ができるかとなるとまたそれも難しく、ただただ素直に、ただただ親も人間なんだ・・・

何かの縁で親子なんだ。家族なんだ。

とおもうのです。

家族とはなんらかの縁でお互いに「学ぶ必要」があってこのチームになった・・・そうおもうと

一緒にいてくれることがありがたいのです。

息子は私のもとに生まれ、それなりに過酷な状態で生きてきましたけれど、

不幸だったかというとそうではなかったと思います。

怒りっぽくて、あきっぽい私が子どものことに関しては「一生懸命」やれてきた。

「離婚して、息子がわかいそうって自分でもおもってる。だから幸せにしてあげなきゃって

おもうんだけどね・・・。」

そういうと夫が「いや、もう十分幸せなんじゃないの?別の意味で、まあ普通ではないかもだけど」

といっていました。

「常識的な幸福」を私はどこかで求めていた。

うちは「常識的な幸福」ではないかもしれない。

でもそれでもうちはうちで「ひとつのチーム」で他ではない幸福を味わっている。

息子を通していろんなことを学び、発見できている。

私は多分すごい過保護で、甘やかしているのかもしれない。

ときどきよくわからなくなる。

でもとにかく10歳までは甘えさせようって思っています。

自分の幼少期をおもえば、「甘え」はやっぱり「安心」をもたらすとおもう。

親のおひざでゆっくりとパワーを取り戻す。

抱きしめるとこどもってなんてあったかい。

でもこどもって自分からさっさとおひざから出て行くから、パワー充電しあえたらいいなって

おもいます。









2009.11.16 Mon l 育児 l コメント (0) トラックバック (0) l top
昨日の朝、いつものようにばたばたと息子は幼稚園の支度をはじめ・・・。

気がつきゃものすごい速さで用意が終わり、さて玄関に。

でも私が見ている限り、「トイレ」に行った様子なし。

「あれ、トイレ行った?」

「うん、いった」

「ほんと?」

「ほんと」

ちょっと気になるけど、そういうなら仕方ないよね。

バス停に行くまでにもう一度

「本当にトイレいったの?」

「・・・だって、でないもん。」

やっぱりいってなかったか。

「でないの?」

「うん、したくない」

イライラ(バスが来ちゃうけど、トイレはいってほしいな)

「でも朝起きたら毎日おしっこでるでしょ?いったほうがいいとおもうよ。」

「・・・」

「いってくる」

「アパートの下で待ってるから、いっておいで」

息子、すぐになきながら戻ってくる。

「だって・・・でないもん!!」

ほんとかよ〜!!

しかたなくバス停に。

「本当にしたくないの?」

「うん」

「なら。したくなったらバスの先生にいいなさい、」

「うん」

ちょっと泣いたまま。

バスが来て息子は乗り込んだ。

問題は息子の問題。

朝トイレに行かなかったのも彼の判断で、バスの中で先生にいうかどうかも彼の問題。

でも、なぜか私は心配だった。

「ちゃんと先生に言えるかな?」

「もらしちゃって泣かないかな?」

「私がしつこくトイレにいったかきいたのが悪かったかな?」

でももう私が解決できるわけではなく、彼を信じるしかない。

私は車に乗って出かけた。

30分くらいはちょっと心配だった。

その日は小学校の就学児健診で、幼稚園にむかえにいくことになっていた。

迎えに行くとき

「もらして、べつのズボンかも」なんて想像もした。

でも、朝のままの格好だった。

にこにこしていた。

「朝はごめんね、ママがしつこかったから、トイレにいってないことをかくしてしまった?」

「べつに〜、本当にでなかったの。バスから降りて、あそぶころにトイレに行ったよ。」

「そうなんだ。」

膀胱はフランス人だな。

結局もらすことはなかったらしい。

しかし、どうしてだろう?

親はいつまでも「こどもを守ってやらねば」と思っているが、子どもはとっくの昔に

自分のことは自分でできるのだ。

それにどうしてだろう?

こどもが失敗することを親が恐れるのは?

同じように痛みをかんじるからだろうか?

でもわたしと息子の尿意が違うように、感じ方はそれぞれかもしれない。

つながっていても、もう別々の人間だね。
2009.11.13 Fri l 育児 l コメント (0) トラックバック (0) l top
久しぶりの更新です。

書きたいことはたくさんあったのに、あっというまに・・・時間は過ぎていきますね。

今週木曜日にまた親業の講座にいきました。

あと残すところ2回。木曜日は自分の感情に触れるため、どっと疲れます。

こどもの気持ちに寄り添う・・・なんて口ではいえるけど、なかなかできていないな〜と

毎週反省しています。子どものなまみの感情に触れたり、欲求にふれると、親はおなじように

揺れてしまいますから。親はおやで何が言いたいかわからないうちにこどもに自分の感情を

押しつけてしまいがちですし・・・。(笑)

ある方が「こどもの笛がでたらめでうるさい」ということをこどもに伝えたい。といいますと、

みんなで考えていくうちに、インストラクターが「本当に言いたいことってそれかな?」といいました。

「子どもの笛がうるさい」から「イライラする」の背後には

「こどもが笛のテストが悪くて残念だった。」という気持ちが隠されており、

またまたその背後には

「こどもがもっと笛ががうまかったらいいな」という期待も隠されていました。

まず親が「あら私って本当はそんな気持ちだったのね。」と気がつくことって大切ですよね。

その方は最後にお子さんに対する「期待の大きさ」と「現実のこどもの態度の差に自分が

葛藤している」ことを語ってくださいました。

「なんでもできるこなんていないって頭では分かっているんです。でも・・・期待してしまう。」

そんな素直な親の気持ちをお互いにシェアできました。

私はそういうのはあんまりないけど、「優しい子でいてほしい」という期待はあるかも。

勉強に対してはあまりないけど、「他人も自分も傷つけない子」であってほしいとは思ってる、

でもそれは無理ですね。人生って自分がただ生きているだけでも「傷ついたり、傷つけたり」

しますから。

私がやっと素直な気持ちになって、離婚に踏み切った時、(自分の気持ちをありありと受け止めたとき)

元夫は傷つきましたし、両親も傷つきましたし、こどもも傷つきました。

それでも「私は私の気持ちを大切にしなければならなかった」ときに初めて

「傷つかない、傷つけない生き方はないんだな」とおもいました。

今まで「私が逃げてきたこと」を突き付けられているようで痛かったです。

友人たちも「離婚」についてはいろいろでした。

「もうちょっとがんばったら?」

「後で後悔するよ。」

なんていろいろコメントがありましたが、

「もう十分に頑張ったから、もういいんです。」という気持ちがストレートに自分から自分に

伝わったのです。それは今まではなかった感情の素直な流れというか、なにかつまりが

とれたような感覚でした。

妹も結婚生活で我慢しすぎていたので、私が離婚したことがショックだったのか、

いろいろともめました。

人はじつは「みな自分と同じように生きてほしい」というコントロール欲や平等とは口先だけの

押しつけもあるんです。

よく教師が「あなただけよ、そんなことするのは。」というのは背後に

「みなとおなじようにしなさい」というメッセージが隠されていますね。

そのように「何かのメッセージを隠した」言動ではなく、ありのままの素直なこころをこどもに

伝えていくのが親業です。

そうすることで「誠実さ」をこどもに教えることができる。

「うるさいな〜」の背後にかくれているものはなんでしょう。

疲れているのかな?

かなしいことがあったのかな?

そんなときはこどもに

「ママは今日仕事で一日忙しかったの、とても疲れているから少しテレビの音を小さくして

もらえる?」

などとそんな風に批判がましくなく、こどもに気持ちをつたえられたらどんなにいいかとおもいます。

今はできるだけそんなふうに会話をしていますが、まだまだ「隠された私の気持ち」に

自分自身きがついてないこともあり、難しいときもあります。

ただ、お互いに素直であることが難しい時代なので、家庭では素直に過ごしていきたいです。


子どもも親も素直になれないのは、背後に「受け入れられないときの自己防衛」もあるのだとおもいま

す。どんな理由で子どもをしかったとしても、それが親が正しかったとしても、親に怒られたり

睨まれたりするのは子どもとしてはつらいのです。それで大体の子どもは

黙って耐えたり、反発したり、いろいろですね。

うちの息子は私がピリピリしてくると、「ママってこわい」っていいます。

「ごめん、疲れているかな・・・。」そう自分を振り返ったとたん、もう寝るか。

って、緊張の糸がゆるんだり・・・。(笑)

こどもはよくよく親を見てるから、自分もきりきりしないように、「言葉で伝える」努力はしたいと

おもうのです。

一日何度か

「ママ、大好き」

「ママも」

そういって心和む時間がある。

昨日は押入れで友達とバナナを食べていた。

笑いながら雨の中を走り回って、バスクリンを選んでお風呂に入る。

最後はDVDをみながら眠ってしまった。

そういう姿を見るとき、多分私は「幸せな親」だとおもう。








2009.11.09 Mon l 育児 l コメント (0) トラックバック (0) l top
ここのところずっと忙しかったので、昨日は映画を見に行ってきました。

ずっとみたかったし、映画館で!とおもっていた・・・

私の中のあなた 上 (ハヤカワ文庫NV)私の中のあなた 上 (ハヤカワ文庫NV)
(2009/09/05)
ジョディ・ピコー

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物語は

11歳のアナは白血病の姉、ケイトを救うために遺伝子操作によってドナーとしてつくられて
うまれてきた。
家族の思いは「ケイトに生きてほしい」
それは信じて疑わない母親、
ある日、アナは「もう姉のために手術をうけたくない」と両親を訴える。
アナの決断にはある隠された秘密があって・・・

これ以上はいえません!

昨日は映画館で久しぶりに泣きました。
こういう映画、昔だったら親の気持ちがわからなかったかもしれません。
私も親になり、子どもを通していろいろな葛藤や感情を感じることができたから、
こういう家族みんなの思いが理解できるのかもしれません。
家族の別々のいろいろな思いがある。
みんな愛のためにうごいているのだけど・・・
でも気持ちが違うこともあるよね。
それでも家族だから、ともに生きている。
ぶつかったり、すれ違ったり、私たちは違う人間なんだけど、家族として過ごし、
それぞれの「幸せ」をつくっていくのでしょうね。

一番印象的だったのは、死を迎えることを決心したケイトが「死を受け入れられない母親」
を抱きしめるところ。

生きるって、なんだろう??

そんなことを考える一日になりました。

もしかしたら大人より子どものほうがきっとなんでもうけいれているのかもしれません。

私は頭で考え、「もっとああできたら、こうできたら」と愛情のつもりでエゴが出てくる

ことがあるんですが、こどもはもっとシンプルに「今」を楽しんだり、つらいことも受け入れたり、

頭で考えないで、身体と心全体で物事を受け入れているようにおもうのです・・・。

親が思う以上に子どもは「理解できる」存在なのかもしれません。

頭で「あーでもないこーでもない」と自分を責めたりしているよりは、たった今をもっと楽しんで

生きたほうがずっと幸せなんですね。

もうひとつはこんなにすてきな家族はないかもしれない。

それは自分たちも負けず劣らず「幸せな家族」なんだとおもいます。

たぶんきっと、みなさんもそうだと思います。

そんなことに気がついた昨日でした。


2009.10.29 Thu l 育児 l コメント (0) トラックバック (0) l top