人と人の間
久しぶりに映画館で映画をみた。
ぐるりのこと。
先週友人の身の上話を聞きに渋谷に出たとき、ふと目に留まった映画のポスター。
これ、見たいな〜。
なんとなく感じた。
傷ついている友人を隣に、なにかを感じた。
リリー・フランキー主演ね〜。
気になりつつ、2週間。
この週末に見に行くことができた。
パートナーを誘ってみたが、「え〜、なんかおもしろくなさそう〜」
といわれた。
べつにいいけど・・・。
結果はけっこうよかった。いや、かなりよかったとおもう。
人間はみんな人それぞれの傷を負って生きている。
その傷は消えることはないかもしれない。
だけど、人とのつながりをもてたとき、なんとなく自分に自信がわいたり、生きていくことが
辛くなくなるのかもしれない。
主演のカナオのもっさりとしたあたたかさや、人を責めたり、さばいたりしない性格が妻の心を安心
させたのかもしれない。
人間って、「私こんなに弱いの。」って全部さらけ出しても相手が逃げないとき、初めて安心するのか
もしれない。
人は一人でなんかいきられない。
人と人の間に絆があるとき、私たちは本当の意味で生きてることを実感できるのかもしれない。
苦しいことも、うれしいことも、いろんなことがある人生だから。
ちゃんとすることだけがすべてじゃない。
映画館をでてからパートナーとあーでもないこーでもないといいながらスペイン坂を下る。
「ぐるりのことっていったいなんのことだろう?」
そんなことを話していた。
きっと答えはなくてもいい。
ただ話している、そういう感覚がとてもすきなのだ。
一つの答えが人生に必要だろうか?
たぶんいらないとおもう。
みんな人それぞれ、それでいいよ。
ぐるりのこと。
先週友人の身の上話を聞きに渋谷に出たとき、ふと目に留まった映画のポスター。
これ、見たいな〜。
なんとなく感じた。
傷ついている友人を隣に、なにかを感じた。
リリー・フランキー主演ね〜。
気になりつつ、2週間。
この週末に見に行くことができた。
パートナーを誘ってみたが、「え〜、なんかおもしろくなさそう〜」
といわれた。
べつにいいけど・・・。
結果はけっこうよかった。いや、かなりよかったとおもう。
人間はみんな人それぞれの傷を負って生きている。
その傷は消えることはないかもしれない。
だけど、人とのつながりをもてたとき、なんとなく自分に自信がわいたり、生きていくことが
辛くなくなるのかもしれない。
主演のカナオのもっさりとしたあたたかさや、人を責めたり、さばいたりしない性格が妻の心を安心
させたのかもしれない。
人間って、「私こんなに弱いの。」って全部さらけ出しても相手が逃げないとき、初めて安心するのか
もしれない。
人は一人でなんかいきられない。
人と人の間に絆があるとき、私たちは本当の意味で生きてることを実感できるのかもしれない。
苦しいことも、うれしいことも、いろんなことがある人生だから。
ちゃんとすることだけがすべてじゃない。
映画館をでてからパートナーとあーでもないこーでもないといいながらスペイン坂を下る。
「ぐるりのことっていったいなんのことだろう?」
そんなことを話していた。
きっと答えはなくてもいい。
ただ話している、そういう感覚がとてもすきなのだ。
一つの答えが人生に必要だろうか?
たぶんいらないとおもう。
みんな人それぞれ、それでいいよ。
被害者意識
先日車の運転中に右側から突然車が飛び出してきたようにみえました。
おもいっきりブレーキを踏んで、驚きました。
相手もなんだか驚いていたような??
とにかく後でパートナーにその話をすると・・・。
「本当に相手は君を見ていなかったか?」
「本当に飛び出してきたのか?」
「本当に急ブレーキをかける必要があったのか?」
と質問攻めに・・・。(コワ)
彼は私の運転を良く見ていて、
「ブレーキをかけすぎる」
といつも指摘します。
もしかして、「被害者意識」かもしれません。
相手はまったくこちらを攻撃するつもりがなくても、本人が「自分は攻撃される」といつも感じていると
必ずなにか動きに変化があらわれます。
良くあることは歩いていて誰かが「ばかやろー」と叫んだら、それが自分に向かっていなくても自分に
むかっていると勘違いしてしまうことです。
注意されているのは自分じゃなくても、自分にむかっていると感じる。
誰かがクスクス笑っていると、自分が笑われているのでは?と感じることが「被害妄想」
私もかつて二人の人間から猛烈に攻撃をうけたことがあり、それが引き金となって、「世界中から嫌われている」とかんじたことがありました。
被害妄想ですよね〜。
そこでどうやって治したかっていうと、考えることをやめることにしました。
なんだか精神的に疲れてくると被害妄想が始まるので、まず「自分は今疲れすぎていないか?」
と確認したり、疲れの原因をしっかり見定めたりすると意外とすんなり「被害妄想」も治ります。
「ああ、これは過去の傷がうづいているだけ」とおもえば、何てことないのです。
ただ「自分はまたやってしまった」とか
「被害妄想の自分は嫌いだ」
などと思わないことです。
「過去がまだ癒されきっていないのだ」と
感じるだけでいい。
それ以外は考えない。
「きっと、うまくいく」
そうおもうだけでいいのではないかなとおもう。
うちの母もものすごい被害妄想の人で
運転中にクラクションならしまくってます。(笑)
失敗は悪だ!とおもっているとすべての行動に緊張が伴う。
だから、被害妄想の人は「宇宙」を信じていないのかもしれません。
生きていくのがしんどいのかもしれません。
私は疲れたときいつも「守られている」と感じることにしています。
一度傷ついた心はそう簡単に癒えないけど、ゆっくり癒えていくもの・・・。
急がずあせらず、「今被害妄想している」と気がつくことですよね。
自立も癒しへの道もそんなにスピードをだせないもの。
それさえ知っていればそんなに怖くないんですよね。
おもいっきりブレーキを踏んで、驚きました。
相手もなんだか驚いていたような??
とにかく後でパートナーにその話をすると・・・。
「本当に相手は君を見ていなかったか?」
「本当に飛び出してきたのか?」
「本当に急ブレーキをかける必要があったのか?」
と質問攻めに・・・。(コワ)
彼は私の運転を良く見ていて、
「ブレーキをかけすぎる」
といつも指摘します。
もしかして、「被害者意識」かもしれません。
相手はまったくこちらを攻撃するつもりがなくても、本人が「自分は攻撃される」といつも感じていると
必ずなにか動きに変化があらわれます。
良くあることは歩いていて誰かが「ばかやろー」と叫んだら、それが自分に向かっていなくても自分に
むかっていると勘違いしてしまうことです。
注意されているのは自分じゃなくても、自分にむかっていると感じる。
誰かがクスクス笑っていると、自分が笑われているのでは?と感じることが「被害妄想」
私もかつて二人の人間から猛烈に攻撃をうけたことがあり、それが引き金となって、「世界中から嫌われている」とかんじたことがありました。
被害妄想ですよね〜。
そこでどうやって治したかっていうと、考えることをやめることにしました。
なんだか精神的に疲れてくると被害妄想が始まるので、まず「自分は今疲れすぎていないか?」
と確認したり、疲れの原因をしっかり見定めたりすると意外とすんなり「被害妄想」も治ります。
「ああ、これは過去の傷がうづいているだけ」とおもえば、何てことないのです。
ただ「自分はまたやってしまった」とか
「被害妄想の自分は嫌いだ」
などと思わないことです。
「過去がまだ癒されきっていないのだ」と
感じるだけでいい。
それ以外は考えない。
「きっと、うまくいく」
そうおもうだけでいいのではないかなとおもう。
うちの母もものすごい被害妄想の人で
運転中にクラクションならしまくってます。(笑)
失敗は悪だ!とおもっているとすべての行動に緊張が伴う。
だから、被害妄想の人は「宇宙」を信じていないのかもしれません。
生きていくのがしんどいのかもしれません。
私は疲れたときいつも「守られている」と感じることにしています。
一度傷ついた心はそう簡単に癒えないけど、ゆっくり癒えていくもの・・・。
急がずあせらず、「今被害妄想している」と気がつくことですよね。
自立も癒しへの道もそんなにスピードをだせないもの。
それさえ知っていればそんなに怖くないんですよね。
新学期
新学期の始まりと共に、ママたちから不安の声を聞くようになりました。
子どもの不安に引きずられていませんか?
子どもを心配そうにみつめていませんか?
まずそれをやめましょう。
こどもは本来、成長する力をもっているものです。
子どもが不安を感じたら、共感あげましょう。
具体的にどうするかって?
泣いたらなにもいわず抱きしめる。
怒っていたら一緒に怒ってあげる。
「今日こんないやなことがあった」といってきたら
「そうか、嫌だったね〜」
と共感してあげます。
そのあと、共感されるとその感情はなくなります。捨てることができます。
そしたら新しい感情をいれてあげます。
「ママがいるからね!」
「大丈夫。」
「神様がまもってくださるよ」
「大好きだよ」
「〜ちゃんはいい子だよ」
と肯定してあげます。
それで終わりです。
あとは
「いってらっしゃい!」
笑顔で送り出してあげましょう!
おかあさんが思いつめた顔でこどもをみつめているとこどもも不安になります。
だからママたちにも・・・
「大丈夫!」
こどもをもつと自分の弱さがよくわかりますよね。
こどもには「できる」といいながら自分はできてないとかね。(笑)
でもできることがいいことでもない。
できなくてもできても、結果ではなく今挑戦しているということがすばらしい!
だから、こどもの努力をいつも結果で判断せず、努力していることをみとめてやってほしいです。
私たち人間はみな「愛」というエネルギーで動いています。ご飯を食べるのは肉体のためですね。
精神のためには「愛」しかありません。
男と女の愛ではないですよ。
単なる人間愛です。
まずは自分を信じること、そして子どもを信じることですね!
子どもの不安に引きずられていませんか?
子どもを心配そうにみつめていませんか?
まずそれをやめましょう。
こどもは本来、成長する力をもっているものです。
子どもが不安を感じたら、共感あげましょう。
具体的にどうするかって?
泣いたらなにもいわず抱きしめる。
怒っていたら一緒に怒ってあげる。
「今日こんないやなことがあった」といってきたら
「そうか、嫌だったね〜」
と共感してあげます。
そのあと、共感されるとその感情はなくなります。捨てることができます。
そしたら新しい感情をいれてあげます。
「ママがいるからね!」
「大丈夫。」
「神様がまもってくださるよ」
「大好きだよ」
「〜ちゃんはいい子だよ」
と肯定してあげます。
それで終わりです。
あとは
「いってらっしゃい!」
笑顔で送り出してあげましょう!
おかあさんが思いつめた顔でこどもをみつめているとこどもも不安になります。
だからママたちにも・・・
「大丈夫!」
こどもをもつと自分の弱さがよくわかりますよね。
こどもには「できる」といいながら自分はできてないとかね。(笑)
でもできることがいいことでもない。
できなくてもできても、結果ではなく今挑戦しているということがすばらしい!
だから、こどもの努力をいつも結果で判断せず、努力していることをみとめてやってほしいです。
私たち人間はみな「愛」というエネルギーで動いています。ご飯を食べるのは肉体のためですね。
精神のためには「愛」しかありません。
男と女の愛ではないですよ。
単なる人間愛です。
まずは自分を信じること、そして子どもを信じることですね!
光と影
自然界は光と影でできていますね。
そこに在るから、光で照らされると影ができる。
私たち人間もきっと心の中は光と影がありませんか?
光の部分ばかりみていると、影の部分がひときわ目立って・・・。
影ばかりみていると今度は光を失ってしまう。
心の病はそんなところからくるのかもしれません。
まるでオセロのようです。
真っ黒になると、なかなか白にはもどれない。
たったひとつの白い部分だけは黒い部分と戦っているようにもみえませんか?
だけど、実は白も黒もどちらも私自身。
人間は光と影を同時にもっている存在なのではないかなと。
バランスよく、光と影があれば世の中は美しくあれます。
私もそんな風になりたいものです。
自分のいいところもいやなところもしっかり愛していきたい。
それができたら、生きていくことってずいぶん楽になりますよね?
どんな私でも私が私であったら、それだけで歩き方さえ軽やかになります。
明日どんな不安があるかわからない世の中ですが自分を信じることができれば、不安があっても生きていけるのかもしれません。
いつか夢を見ました。
太古の私です。
明日はマンモスが取れるだろうか??なんて悩んでいる様子でした。でも私は「明日のことはあしたにしかわからん」といって寝てしまいました。
なんかおかしな記憶です。
こんな夢もみました。
また太古です。
そのときのパートナーと月を眺めていました。
「キレイだね〜」
そんな感じ・・・。
それだけの夢。
それだけのこと。
でも共感しあっていて、幸せでした。
この上なく幸せだったのです。
人生ってもしかしてそんなものかもしれません。
太陽があり、月がある。闇があり光がある。
私がいて、あなたがいる。
それだけのことです。
そして幸せがある。
そこに在るから、光で照らされると影ができる。
私たち人間もきっと心の中は光と影がありませんか?
光の部分ばかりみていると、影の部分がひときわ目立って・・・。
影ばかりみていると今度は光を失ってしまう。
心の病はそんなところからくるのかもしれません。
まるでオセロのようです。
真っ黒になると、なかなか白にはもどれない。
たったひとつの白い部分だけは黒い部分と戦っているようにもみえませんか?
だけど、実は白も黒もどちらも私自身。
人間は光と影を同時にもっている存在なのではないかなと。
バランスよく、光と影があれば世の中は美しくあれます。
私もそんな風になりたいものです。
自分のいいところもいやなところもしっかり愛していきたい。
それができたら、生きていくことってずいぶん楽になりますよね?
どんな私でも私が私であったら、それだけで歩き方さえ軽やかになります。
明日どんな不安があるかわからない世の中ですが自分を信じることができれば、不安があっても生きていけるのかもしれません。
いつか夢を見ました。
太古の私です。
明日はマンモスが取れるだろうか??なんて悩んでいる様子でした。でも私は「明日のことはあしたにしかわからん」といって寝てしまいました。
なんかおかしな記憶です。
こんな夢もみました。
また太古です。
そのときのパートナーと月を眺めていました。
「キレイだね〜」
そんな感じ・・・。
それだけの夢。
それだけのこと。
でも共感しあっていて、幸せでした。
この上なく幸せだったのです。
人生ってもしかしてそんなものかもしれません。
太陽があり、月がある。闇があり光がある。
私がいて、あなたがいる。
それだけのことです。
そして幸せがある。
無意識
意識の世界は何パーセントだとおもいますか?
実は7%〜10%。あとは無意識の世界なんです。
アロマテラピーの学校の先生が無意識の力について語っておられました。意識している部分はほんのわずか、ということは無意識の力のほうがずっと大きい。私たちはいつも無意識で何かを行い無意識の力に引きずられている。と。
確かにわたしもそうでした。
自分の無意識に引きずられて生きていたような気がします。
自分のことを知っているようで実は何も知らなかったに等しいのです。
苦しいことも哀しいことも感じなかったことにして幸せなふりをして生きていました。幸せの価値観さえも自分なりのものではなく、親から受けついだものにすぎなかった。それがわかったときは正直びっくりしました。だって私は親の生き方を嫌っていて絶対にこうはならないと心に決めていたからです。
だけど、そのとらわれこそが同じような生き方を無意識で選んでいた。親に逆らいながらも親に愛されたいので、逆らっている自分をどこかで責めていて、結局は同じような価値観を持ってしまっていたのかもしれません。まるで大人の私と子供の私が無意識下でけんかしているみたいでした。
自分の中に刷り込まれた親の価値観はなかなか消えません。
気がついたらまた同じように行動している。私が親に逆らうと小さな子どもが叫びます「そんなんじゃ親にはあいされないよ」そこで大人の私が叫びます。「それでもいい、それでも私はこっちの道をいく」と葛藤を繰り返しながら自分なりの価値観をつくっています。
世界は常に変化している、それなのに心の成長が訪れないわけはない。
だれかがそんなことを書いていました。
争いの多かった時代の精神で今の時代を生きることができないように・・・。
他人に負けないことがいいことではないのです。もともと勝ち負けなど私たちの世界にはなかったのですから。
今、ラッセルの幸福論を読んでいますが、ここには幸福になるためにエッセンスがたくさん秘められています。それは私たちは子供時代にすりこまれた親の価値観を捨てていくことにあると書いてありました。おやから教えられたこと・・・それは親の生きた時代には大切だったことでしょう。しかし私たちの生きる現代は既に貧しくもなく、豊かななかから何かを学ぶしかないのです。
親の世代はいうでしょう。
「私たちの時代は貧しくてがむしゃらに働いたのだ。」と。
しかし、今の時代に貧しさゆえ不のエネルギーで働く人がいるでしょうか?いませんね。明日食う米がない人がいるでしょうか?たぶんそうはいないとおもいます。ですからそんな時代に「不のエネルギーを糧に働く意欲をつける」ことは不可能にちかいのです。
だったら現代はどうやって、何をエネルギーにして生きたらよいのでしょうか?それは多分私たちがみんな模索していることでしょう。現代の私たちは喜びのエネルギーを糧に生きるのが幸福かとおもいます。私たちは豊かになった。豊かな人はその豊かさをいつまでも追い求めるのではなく、分け与えることに喜びを見出していくのかもしれません。
幸福って多分また人それぞれ違うものだと思います。それをお互い認め合って、自分だけの幸福感をかんじられたらそれでよいのかもしれません。
だから私も誰かから私のことを「かわいそうだ」と同情されても少しも苦でないのです。
親から「間違った生き方だ」といわれても、私がそれでよければそれでよいのです。
それに気がつくまで時間がかかりました。これからも模索していきます。
だけど、こうして他人の眼を気にしなくなると生きていくことがこんなにも楽しく軽やかになるものなんだと気がついたのです。
ですから今私たちの育てているこどもはきっと私たちよりも精神性の高いこどもたちではないでしょうか。彼らはもう豊かさをもってうまれている。その豊かさから何を学ぶのか、それは彼らにしかわからない。だから私は「今のは贅沢だ」なんておもいません。贅沢という価値観さえ、ひとりひとり違うからです。今子育てをしていくなかで親たちのほうが学んでいるのかもしれませんね。
実は7%〜10%。あとは無意識の世界なんです。
アロマテラピーの学校の先生が無意識の力について語っておられました。意識している部分はほんのわずか、ということは無意識の力のほうがずっと大きい。私たちはいつも無意識で何かを行い無意識の力に引きずられている。と。
確かにわたしもそうでした。
自分の無意識に引きずられて生きていたような気がします。
自分のことを知っているようで実は何も知らなかったに等しいのです。
苦しいことも哀しいことも感じなかったことにして幸せなふりをして生きていました。幸せの価値観さえも自分なりのものではなく、親から受けついだものにすぎなかった。それがわかったときは正直びっくりしました。だって私は親の生き方を嫌っていて絶対にこうはならないと心に決めていたからです。
だけど、そのとらわれこそが同じような生き方を無意識で選んでいた。親に逆らいながらも親に愛されたいので、逆らっている自分をどこかで責めていて、結局は同じような価値観を持ってしまっていたのかもしれません。まるで大人の私と子供の私が無意識下でけんかしているみたいでした。
自分の中に刷り込まれた親の価値観はなかなか消えません。
気がついたらまた同じように行動している。私が親に逆らうと小さな子どもが叫びます「そんなんじゃ親にはあいされないよ」そこで大人の私が叫びます。「それでもいい、それでも私はこっちの道をいく」と葛藤を繰り返しながら自分なりの価値観をつくっています。
世界は常に変化している、それなのに心の成長が訪れないわけはない。
だれかがそんなことを書いていました。
争いの多かった時代の精神で今の時代を生きることができないように・・・。
他人に負けないことがいいことではないのです。もともと勝ち負けなど私たちの世界にはなかったのですから。
今、ラッセルの幸福論を読んでいますが、ここには幸福になるためにエッセンスがたくさん秘められています。それは私たちは子供時代にすりこまれた親の価値観を捨てていくことにあると書いてありました。おやから教えられたこと・・・それは親の生きた時代には大切だったことでしょう。しかし私たちの生きる現代は既に貧しくもなく、豊かななかから何かを学ぶしかないのです。
親の世代はいうでしょう。
「私たちの時代は貧しくてがむしゃらに働いたのだ。」と。
しかし、今の時代に貧しさゆえ不のエネルギーで働く人がいるでしょうか?いませんね。明日食う米がない人がいるでしょうか?たぶんそうはいないとおもいます。ですからそんな時代に「不のエネルギーを糧に働く意欲をつける」ことは不可能にちかいのです。
だったら現代はどうやって、何をエネルギーにして生きたらよいのでしょうか?それは多分私たちがみんな模索していることでしょう。現代の私たちは喜びのエネルギーを糧に生きるのが幸福かとおもいます。私たちは豊かになった。豊かな人はその豊かさをいつまでも追い求めるのではなく、分け与えることに喜びを見出していくのかもしれません。
幸福って多分また人それぞれ違うものだと思います。それをお互い認め合って、自分だけの幸福感をかんじられたらそれでよいのかもしれません。
だから私も誰かから私のことを「かわいそうだ」と同情されても少しも苦でないのです。
親から「間違った生き方だ」といわれても、私がそれでよければそれでよいのです。
それに気がつくまで時間がかかりました。これからも模索していきます。
だけど、こうして他人の眼を気にしなくなると生きていくことがこんなにも楽しく軽やかになるものなんだと気がついたのです。
ですから今私たちの育てているこどもはきっと私たちよりも精神性の高いこどもたちではないでしょうか。彼らはもう豊かさをもってうまれている。その豊かさから何を学ぶのか、それは彼らにしかわからない。だから私は「今のは贅沢だ」なんておもいません。贅沢という価値観さえ、ひとりひとり違うからです。今子育てをしていくなかで親たちのほうが学んでいるのかもしれませんね。


