ダイキライ!

ダイキライ!

ってこどもから言われた経験はありますか?

どんな風に感じましたか?

こどもはどんな顔でしたか?

もしもダイキライ!って一度でもこどもからいただいた経験があるかた。

よかったですね(笑)

なにがよかったって?

それだけこどもが心を開いている証拠です。

なにをいっても受け止めてもらえるという自信があるからかもしれません。

とにかく、こどもは自分の気持ちを素直に吐ける場があるということです。

甘えたり、八つ当たりしても許される場があるということです。

大人になってもこんなことをしている人がいますが、(ドキドキ)

ほどほどにしてください。

あんまりすごいことをこどもがいうときはそれなりの理由があるのでしょうが、自分の気持ちも素直に

伝えてみてはどうでしょう?

「そんなこといわれたらママも嫌な気持ちになるよ。」などと伝えてあげましょう。

こどももそれで言葉で人を傷つけることができることを知ります。

ダイキライ!

そう親に言える人は幸せだよね。

だってそれもひとつの甘えだし。

ダイキライがいえないコはきっと大好きもいえない。

ダイキライがいえないコはきっと苦しい思いをしているのかも・・・。

いい子でいるととても辛い。

いい子でいると悪い子になりたくなる。

いい子でいると本当の自分を忘れてしまう。

いい子でいると生きてるのか死んでるのかもわからなくなるんだ。

だから悪い子になったこどもはちょっといい子にしすぎていたのかもしれないよ。

だからダイキライ!っていわれたらこどもはちゃんと育ってるってこと。

うちの息子も大好きな人に限ってダイキライという。

ダイキライは大好きの裏返しってしってればいつも笑顔でいられる。

そっか、私に心を許しているんだなって・・・。

言葉じゃなくても態度でも、こどもから読み取れることはいろいろありますね。

言葉じゃなく、言葉に隠された気持ちを感じてあげられるといいですね。

時には鈍感に気がつかないふりをするのもわるくないけど。



のんびりな日

昨日は車の一ヶ月検診で国分寺にいきました。
さっさと終わったので、帰りは国立によってきました。

ディーラーでみた雑誌に「自然食のレストラン」がのっていて、行きたいな〜とふとおもいました。
電話番号ひかえ、車に乗り込み、カーナビに入れてみたら・・・登録なしでした。
車は既に出発しており、とりあえず名前さえわかればあとはなんとかなるんではないかと・・・。

昔から野生の勘だけはするどく、携帯のない時代はよくこの勘に頼って生きていました。

*とりあえずなんとかなるとおもう
*手段はあまり考えない
*たぶん行けると思う

このくらいの思い込みでなんとか行きたい場所にいけます。

知ってるのは名前、あと国立にあるってことだけ。

もしいけなくてもいいやとおもう。

ふらふらしていると一軒のパワーストーンショップがきになり、入りました。

いくつか気になるものを手に取りました。

レジに行くと、レジのお兄さんがニコニコしています。

きっとこの人はレストランをしっているのでは?

と直感が働き・・・、

「くにたちふぁーむ」ってご存知?

「知ってます」

とまあ丁寧に教えてくれました。

ほらね。なんとかなった!

レストランにいってみました。

長蛇の列。

名前を書いて、近所にお散歩。

目の前に雑貨屋発見!

前から欲しかったトイレマットがありました。

よかった〜!!

というわけで、感謝の連続で願いは叶っていきます。

国立ファーム、おいしかったよん。

ではでは

詳しい直感の法則はこの本で

あなたは絶対!守られている 新装版あなたは絶対!守られている 新装版
(2007/01)
浅見 帆帆子

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きっと毎日の散歩が楽しくなりますよ。

自尊心と喪失感2

自尊心が低いと、喪失感を恐れたり、また喪失感から逃れられなくなる。
そんな時どうしたらいいんだろう?

かつての私は親から見たら「自己顕示欲」が強い人間と思われていたようだ。
自分はできるんだ!と妙に言い聞かせて片意地張って生きていた。それなのに自尊心はもしかしたら低かった・・・。

なんでこんなふうなんだろ??

うちの親は私をぜんぜん褒めなかった。というか代々褒めない家庭だったのかもしれない。
よくはわからないが叱咤激励しかされなかった。おかげで早く自立はしたが、そのぶん「甘え」を押さえつけて大きくなったような気がする。
親にけなされるので、「自分はそんなことない!」って自分で肯定していたけど、それが「自意識過剰」につながったかもしれない。なんだかよくわからないままとりあえずしっかりものになってしまった。
しっかりものではあったけど、なんだか生きるのが辛かった気がする。

それから異常に傷つきやすかった。
しかしその部分は常にかくしていた。自尊心の低さも自分では気がついていなかった。
自分をよくわかっていなかった。

あるとき自分のなかに震源地があることを見つけた。
不安はどうやらそこからくるらしい。
とても苦しかった。
自信を失ったし、自分はいなくてもいい人間だとおもっていた。
精神科でテストしたときもやはり自尊心の低さが伺えた。

どうして治ったかというと、逃げなかったこと。
それから励ましてくれる友人がたくさんいたことだ。
自分の答えが正しいかどうかわからないときでも、「自分を信じるように」といつも励まされた。

ある友人はずっと私を信じてくれ、ある友人はいつも寄り添ってくれた。
いつもいつも誰かが私を支えてくれた。

自分が「私ってだめだ」といっても
「大丈夫だよ。」とはげましてくれた。
相手からもらったエネルギーを自分のエネルギーに変えて、今は返していけてるかな。

小さなことから自尊心は育つ。

喪失しても恐れずに向き合うこと。

小さなハードルをいくつも乗り越えること。

大好きな人にいつも囲まれていること。

そしてできない自分でも愛しいとおもうこと。

そうするとなぜか勇気がわいてくる。

小さな勇気から小さな行動から自尊心はそだつ。

小さなことからはじめよう。

まずは行動から。

自尊心と喪失感

自尊心ってなんでしょう??

先日友人のSKさんと話している時、彼女から「自尊心」という言葉をひろいました。

自尊心・・・。

意味わかってる人って少ないかもね。

そういう私もわかってなかったし。

自尊心・・・

子どもには必要だよね。

でも、自尊心の低い親に子どもの自尊心を伸ばす作業ができるのだろうか・・・。

自尊心・・・それは自分に自信を持っていること。簡単に言えばあるがままの自分を好きだという気持ち。こどもの頭の中には「自尊心」なんて言葉はないけど、しっかり自尊心はもってる。「自分は大切にされるべく存在なんだ!」となんとなく感じていること。そしてママやパパから愛されてる!って感じることが自尊心を高め、日常の中でトラブルに巻き込まれ、傷ついても、もう一度自分を好きになるだけのエネルギーが自分の中にあるってこと。

誰かが私に

「あんた、ちょっと変わってるよね」

そんな風にいわれたとしても・・・

自尊心があるってことは「ありがとう!そんな変わってる自分がけっこう好き!」

こんな風な解釈になるかも

自尊心が低いってことは

「え?私、なんか変なの?どうしよう!みんなと同じにしなくちゃいけないかな・・・」

こんな風な考えになってしまうかも。

仏陀がこんなことを言ってた。

どんなに侮辱されても、侮辱の言葉を受け取らなきゃいい。
バカって名前のプレゼント、ハイどうぞ!って渡されても「それはいらない」「それは自分にふさわしくない」そうおもってうけとらない。そうしたら「言葉は宙に浮くだけ」。先生が「君は馬鹿」といっても親に叩かれても理不尽だと知っていれば「受け取る必要はない」

ということは、相手が言ったことが「自分にふさわしくない」と思うこと。それは自尊心ではないか?

仏陀はだからぜんぜん傷つかない。

自分を侮辱していたひとが最後に「どうしてあなたは私がこんなに侮辱しても怒りもしないのですか?」と聞いた。
仏陀は「え?だって私は馬鹿じゃないから、その言葉を受け取らないだけだよ。」

こんな風に答えたそうだ。

常に自己肯定できる力なんだなっておもう。

こどもって大体みんな自尊心もってる。

その自尊心を傷つけたり、低くしたりするのって、誰だと思う?

けっこう親だったり先生だったり、大人だったりする。

なんで?

それには深いわけがある。

大人自身が自尊心について考えたことがないから。

大人自身の自尊心が低すぎるから。

そしたら誰が子どもの自尊心を高めてやれるのさ?

こんな子がいた。

自分では絶対できるって思ってる。だけど、ママが言うんだ。「あんたにはできっこない」そんな言葉をきいたら自信なんかすぐにこなごなに飛んでいってしまう。

こんな子がいた。

すっごく悔しいことがあって、泣きたかった。
そしたらママが言ったんだ。
「あんた弱虫ね」
そんなこといわれたら「自分は弱いんだ」っておもってしまう。

そんなことをいう大人ってどんな大人だろう?そんな大人こそ、実は自尊心なんて言葉聴いたこともないのかもしれないね。

もう一つ、自尊心の低いものは自尊心の高いものに「無意識」で嫉妬しているものなんだ。
だから子どもが「根拠のない自信」をもっていると大人のほうがいらいらしてくる。
「なんでこの子はこんなに誇り高いんだ!」って腹が立つ。自分にないものをこどものなかに見るとき、
大人だって嫉妬してしまうものなんだよね。
大人に気がついて欲しいんだけど・・・。

自尊心が低いってけっこう生きていくことが辛い。

大切なものを失ったとき、喪失感がやってくる。哀しくて悔しくて、情けなくて、元気がなくなる。
自尊心が高かったら、一晩寝たら別の道を歩める勇気がもてるかも。大人が寄り添ってくれたら、
「素直な自分」でも恥ずかしくない。
だけど、もし「素直な自分では愛されない」っておもっていたら、自尊心はどうやって育つんだろう?
どうやって自分の自尊心を育てていけばいいんだろう?
大人になって、困難にぶつかったとき、自尊心がなかったら簡単に折れてしまう。折れて、立ち上がれなくなる。そんなときどうしたらまた自信を取り戻せる?

私自信も自尊心を傷つけられ、なかなか自分に自信が持てない時期があった。

そんな時どうしたらいいか・・・。

明日のブログで〜!!

求めよ

1年前に子連れで家出した。

家出したまま結局戻ることはなかった。

理解してくれない人のそばで生きることに疲れたのだ。

私を愛してくれる人は他にいるのではないか?

本当の愛はなんなのか?

ずっと答えを求めていた。

そんなときに神様がくれたともだち。

離れ離れになっていた私のともだちがまた私の元に戻ってきた。

友はずいぶんと寛容な人だ。

一言で言うならば

「心のブレーキをもたない人」

「自分の価値観をもたぬ人」

私は彼女の愛情に包まれてそこで自分の仮面をはじめてはずせた気がする。

彼女と過ごした3週間あまり、衣食住を共にして迷惑もかけた。

しかし、迷惑だったかどうかさえわからない。

彼女と私の間に「迷惑」という文字はないのかもしれない。

いつもお互いが「仮面をはずせる場所」だった。

居心地がよかったのだ。

私がバランスを崩している間、ずっとただ寄り添ってくれた。

思っていることを素直にいってくれた。

そんな素直さに私も導かれたとおもう。

彼女のうちで見つけた本からひとつの糸口がみつかった。

アメリカインディアンの教え (扶桑社文庫)アメリカインディアンの教え (扶桑社文庫)
(1994/04)
加藤 諦三

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そこに書かれていたものは私の人生に衝撃を与えた。

その本は彼女の夫の本であったが、私はそれを何度も読み返し、まるで霧が晴れるような感覚に陥った。

しかし同時に怖かった。

私は知ってしまった、私の親がどんな親だったかを。

そしてその育てられ方を嫌いながら、いつのまにか自分も息子にそう振舞っていたことを。

真実を知ることはいつも晴れ晴れしくあり、同時に苦しみもともなう。

まるで神に裏切られたような気分なのだ。

しかし、私は真実を受け止めることにした。

そしてそれから急速に自分探しの旅が始まったのだ。

息子がいつもそばにいてくれた。

友人がいた。

そして未来にまだ見ぬ多くの人が私を待っていた。

1年前の私は、泥の中を這うように生きていた。

答えは求めるものだ。

求めなければ得られない。

最初は自分の中の疑問さえわからない。

ただ「もやもやと、何かを求めている」という感覚だけがあった。

暗闇の中で一筋の光となってくれた本と私を支えてくれた友人にとても感謝している。

彼女が私に特別なにかをしてくれたわけではない。

しかし、彼女がそこにいただけで、私が素直になれたのだ。

存在の価値、ありのままの姿、きっと人はなにもしなくても価値がある。

素直に生きていればそれだけで誰かを勇気つけているのかもしれない。

Fちゃん、ありがとう!!

今かんがえるとそれは「森田療法」に似ている。

Fちゃんは私にとっての森田だったとおもう。

「あるがまま」

シンプルだけど難しい。

素直に生きることを教えてくれたFちゃんと、夫のKには心から感謝している。

私に考える時間を与えてくれて、本当にありがとう!

愛の証

愛の証

あなたがあなたでいることが

わたしへの愛の証

わたしがわたしでいることが

わたしへの愛の証

泣いたり

笑ったり

怒ったり

悲しんで

苦しんで

泣き叫び

時にあなたを困らせても

私を傷つけても

偽らず

自分らしくあること

私たちが私たちらしくあること

時に教えに背いても

私たちらしく生きること

それが愛の証

神への愛の証

私たちすべてへ

以前ブログにのせた詩です。
昨日電話をもらった友人へ、そしてみんなへ

私たちはどうしても自分を偽ってしまうね。

偽ることで自分を傷つけてしまう。

だから、自分であることが他人にとって都合が悪くても、自分らしく生きる。

せめて大切な人の前では偽らず、鏡の前でも偽らず、すると自然な自分がいつもいる。

生きることが楽になる。

いつも心は近くにありますように・・・。

パパのカノジョは

息子と子ども図書館にいった。

私も児童書は大好き!

だから図書カードは2枚!

息子と二人で20冊借りてきます。

息子も本が大好きで、今はまってるのは「食品成分表」なんじゃそりゃ??

本日目に留まって借りた本

パパのカノジョは (海外秀作絵本シリーズ)パパのカノジョは (海外秀作絵本シリーズ)
(2002/01)
クリス モンロー、ジャニス レヴィ 他

商品詳細を見る


ちょっとかわりもんのパパのカノジョと娘のやりとりがおもしろい。

「かっこいい」「かっこわるい」ってなに?

って、等身大のカノジョが教えてくれる。

肩のこらない生き方。

この本が日本でも通用する社会になりますように!

ちなみにわがやは

「ママのカレシは」

というところですね。

息子とカレシのやりとりはかなりおもしろい。

息子「パパとママは大好き、でもOOOは嫌いだよ!」

カレシ「そうか〜、でも俺は君が好き!」

といいながら二人はニコニコ遊んでおります。

カレシはすごいほめじょうず。

息子はいつも褒められてうれしそう!

そんな姿を見て、「私はまだまだだな〜」って思います。

以前息子の育児でずいぶん悩みました。

男の子ならではの激しさ、いたずら、暴力、闘争心、自由さ・・・。

どこまで許せばいいの?って。

そんな時カレシがいいました。

「すきにさせてやれば?親のあんたが世間に頭さげてればいいじゃない。親のそういう謝ってる姿見ればそれ以上はやらなくなるよ。」

それを聞いたとき、正直ズキッっと心が痛みました。

私にはそこまで親として息子を守る心の準備ができていなかった。

もしかしたら世間を気にして息子を叱っていたかもしれない。

自分が世間に頭を下げたくない、世間から責められたくないから息子の行動を制したかっただけなのかも・・・。

タダでさえ片親だから、「あの母親だから」って言われたくなかっただけだったりして・・・。

そんな反省がありました。

今はどうかというと、息子の好きにさせてやればやるほど本人は生き生きとし、ぎりぎりのラインまできたらしっかり「説明」してやめてもらっています。

こどもだから理解できない?そんなことはない。

説明したら、少なくとも理解はできる。

だからいつもカレシの言葉が頭の隅にあって、世間を気にした「しつけ」にならないよう、「こどものため」に意見できる母親でありたいとおもっている。

もちろんとても難しい。

いつも「ここまではやらせよう」とおもいながらも

「注意すべきか?」

などと疑問もありつつ・・・。

でもせっかく息子のなかに芽生えた「チャレンジ精神」を母親の「世間体」のためにつぶしてしまっては

なるまいとは意識している。

息子のチャレンジ精神をより理解しているのはきっと私より私のカレシかもしれない。

この本を読んでそんな風におもった午後であった。

慣れてない。

子育てしてると自分の癖にきがつきます。

そんでもって自分がどんな風に育てられたかもわかります。

先日あるママの相談で「子どもをどんな風にはげましたらいいか、わからない」というものがありました。

いろいろはなしていくうちに

「そういえば、私自身が親にあまり励まされたことがなかったかも・・・。」

そんな気づきがありました。

すばらしい〜!!

育児でつまずくことは自分自身への気づきになります。

子どもが親を困らせることはありがたいこと、困って初めて自分を省みる。それで自分自身も大きな成

長をとげられるチャンス!!

なれないことをすると慣れるまで時間はかかるけど、だんだん板についてくるから大丈夫。

私は親からぜんぜん褒められなかったので、人を褒めることが苦手でした。また褒められることも苦手・・・。

褒められると居心地が悪く、どういう反応していいかわからなくなる。

こんな人もいます。

「褒められると謙遜しちゃう」

日本人は「謙遜」が美徳という時代もありましたので、褒められること自体が社会的に少なかったのかもしれません。

フランスの子どもたちはみんなある程度自信を持って生きています。だってね、毎日毎日「あなたはママとパパの誇りよ!」

な〜んていわれているわけです。

だったら日本人もさっさと「謙遜は美徳」はそこらにおいて、「褒めて」みましょうか。

最初は褒めることも褒められることもなれなかった私ですがいつの間にか板についてきました。

訓練でもありました。

居心地わる・・・とおもっても「受け取る覚悟」を決めて褒められたら「ありがとう!」といいます。

そしたらけっこう気持ちいいじゃん。

というわけで、周りも褒めるようにしています。

特にわが息子!

ちょっとできたら「すごいね〜!」

でも得意げになってはめもはずしますが、でもチャレンジ精神はいつも持っていてほしい。

自信がないときも「きっとできるさ!」と自分を信じて欲しい。

子どもをみてると自分にないものがよくわかります。

だから私もいっぱい練習して、これからまた成長を遂げたい。

「愛情を受け取る準備」

「愛情をあげる準備」

どちらもできてると人生はとっても楽になりますね。

私はどちらかというと「受け取る準備」を怠っていた。

今はどうかって??

受け取る気満々です!



新学期

新学期の始まりと共に、ママたちから不安の声を聞くようになりました。

子どもの不安に引きずられていませんか?
子どもを心配そうにみつめていませんか?

まずそれをやめましょう。
こどもは本来、成長する力をもっているものです。
子どもが不安を感じたら、共感あげましょう。

具体的にどうするかって?

泣いたらなにもいわず抱きしめる。
怒っていたら一緒に怒ってあげる。
「今日こんないやなことがあった」といってきたら
「そうか、嫌だったね〜」

と共感してあげます。

そのあと、共感されるとその感情はなくなります。捨てることができます。
そしたら新しい感情をいれてあげます。

「ママがいるからね!」

「大丈夫。」

「神様がまもってくださるよ」

「大好きだよ」

「〜ちゃんはいい子だよ」

と肯定してあげます。

それで終わりです。

あとは

「いってらっしゃい!」

笑顔で送り出してあげましょう!

おかあさんが思いつめた顔でこどもをみつめているとこどもも不安になります。

だからママたちにも・・・

「大丈夫!」

こどもをもつと自分の弱さがよくわかりますよね。

こどもには「できる」といいながら自分はできてないとかね。(笑)

でもできることがいいことでもない。

できなくてもできても、結果ではなく今挑戦しているということがすばらしい!

だから、こどもの努力をいつも結果で判断せず、努力していることをみとめてやってほしいです。

私たち人間はみな「愛」というエネルギーで動いています。ご飯を食べるのは肉体のためですね。

精神のためには「愛」しかありません。

男と女の愛ではないですよ。

単なる人間愛です。

まずは自分を信じること、そして子どもを信じることですね!

フランキンセンス

アロマテラピーを学び始めてかれこれ1年がたちました。
学ぼうとおもったきっかけは自分自身がうつ病になったから。
なんだかある日を境に眠れなくなった。
努力しても眠れなかった。
3歳の男の子の育児で忙しいはずなのに。
毎日身体は動かしているのに、眠れなくなった。
なんでだろう?
なんでかな??

夜が来るのがこわかった。
「またきっと眠れない」
恐怖の時間になってしまった。
いつか整体の先生がいっていた。
「人間は一日2〜3時間寝たらもう十分。うとうとするだけでもいいから。睡眠が8時間ないと死ぬなんてのは、あれはうそだよ。」と。
それを思い出し、だったら「私の身体は寝なくてもいいんだ。」とかってに考えて眠る努力をやめました。
眠れない夜はひたすら本を読んだり、DVDをみたり、MDをきいたりしました。
なんだか辛いんだけど、でも身体は動いていた。
そしてある日起き上がれなくなった。

「だるい・・・」

意識がモウロウとするようになってきた。
ふらふらと自由が丘のアロマテラピーのお店にはいり、気の向くままに精油の香りのテスターをかいでいた。

心にぴたっときたのは

フランキンセンス

イランイラン

昔はイランイランは嫌いだったのに・・・。

かいでいると落ち着く。なんだか心が穏やかになっていきました。

そういえば昔アロマ関係の仕事をしていたな。

楽しかったな・・・。

よみがえる記憶のなかで私は奇妙な「幸福感」を感じました。

香りの神秘は香りが直接脳に働きかける作用があるということ。

私がフランキンセンスを好きになった理由はわかりません。

だけど、勉強するようになってこんなことがわかりました。

フランキンセンス
聖書にも22回もでてくるほど歴史的にも昔から儀式につかわれていました。イエスが生まれたときにも献上されています。何世紀にもわたってフランキンセンスは聖なるものとの関わりが強いのです。
主に神経系に働きかける作用があり、神経系の緊張と衰弱の両方に効果があります。ストレスがたまりいらいらして落ち着かず、眠れないときに効果があります。

なによりも心を安定させる作用があるのです。

そう考えると私は自分にぴったりの精油を直感で手にしたわけです。

「この香り、好きだな」と感じた気持ちを大切にしたいですね。

それからは人にどんな精油がなにに効くかきかれたときは、一応は答えますが「自分に合う精油は自分が一番良く知っている」とおもうので、「自分で香りをかいでみるといいよ」とすすめます。


フランキンセンスは私たちを解放してくれます。
心の静けさを取り戻してくれます。
霊的な自己をとりもどし、励ましてくれます。

いうまでもなく私はその後眠れるようになりました。

今でも精神的に疲れた日はフランキンセンスにお世話になっています。

悩んだときは・・・

最近はあまり悩まなくなったもんです。

1年間とことん悩んだからかな〜。

今は自然と直感にしたがう自分がいます。とはいっても日常の中で悩むのがつきもの。

そんな時どうするかって?

やっぱり話すしかない。

話すのって恥ずかしいですか?

話すのって難しいですか?

私はどっちもイエスかもしれない。

だけど、いつも話すと「じぶんがどうしたいのか」明確になります。

頭の中でもやもや〜ッとしていたことが明確になります。

親鸞聖人は珍しく「しゃべること」を美徳としたひとです。

思い悩む人の話をとことん聞いたそうです。

昔はしゃべることは「口は災いの元」などといって慎んでいたのですが、親鸞だけは「話す」ことを人に

すすめています。

私は必ず2人くらいには同じ話をします。

それで自分の心がしっかり揺れなかったら、行動に移します。

話す人はいつも決まった人です。

そういう意味では私はとても幸せ者です。

本音を話せる人間が近くにいるので。

あとは自分が自分を決して軽蔑しないことです。

「大丈夫」そうおもって行動します。

実は他人は自分を傷つけることはできません。

「あんた馬鹿だね」といわれても

本気にしなければいいのです。

だけど自分が自分に「あんたどうしようもないね」といってしまったら

自己嫌悪ですね。

自分が自分を傷つけるくらいなら、いっそ人のせいにしたほうがずっとマシなのです。

自分が自分に刃をむけることだけはやめたほうがよさそうです。

私はとても弱いな〜。とおもうとなんだか自分がおかしくなります。

そうするとなんだか威張れなくなる。子どもにも「すいませんけど〜」なんていったりして。

弱い自分をまるごと愛すれば「他人の弱さ」も愛せます。

私もあんたも大して変わらぬ人間よ。なんてね。

悩んでるときはおもしろいことをかんがえます。

最近息子のリクエストの「うOこべんとう」の話を思い出します。

息子よ!ありがとう!

人生の楽しみ方

昨日は息子と二人でカラオケにいきました。

カラオケなんて最近全然してなかったな〜。

ルカと二人でってのも初めてです。

ひたすら童謡を歌いまくる息子よ・・・。

マイクにかじりつきながら歌うのはやめてくれ〜。

「ママは一緒に歌わないで!」といってなんでも一人で歌いたがる。

にしては・・・声が小さいけどね。

かわいいもんです。

二人で歌うたいました。

さだまさしの「しあわせについて」

息子の好きな歌です。

しあわせについて

幸せですか、幸せですか、あなた今
なによりそれが なにより一番気がかり
みんなみんな幸せになれたらいいのに
悲しみなんてすべてなくなればいいのに

どうぞあやまちは二度と繰り返さずに
あなたは必ず幸せになってください
愛する人とめぐりあえたら
抱きしめた腕をゆるめてはいけない

風は移り気身を任せてはいけないよ
時を越えて変わらないのが愛だよ
みんなみんなあなたがおしえてくれた
生きる喜び人を愛する喜び

ありがとうさよなら うまれかわれたならば
やっぱりあなたと愛し合いたいとおもう
ひたむきな人と
愛を信じて
生きがいをさかせしあわせになりたい

ひとりひとりはみなとてもやさしいのに
なにも傷つけあうことはないのに
みんなみんなしあわせになれたらいいのに
悲しみなんてすべてなくなればいいのに

幸せですか幸せですかあなた今
なによりそれがなによりそれがいちばん気がかり

と、こんな詩です。

息子が歌う姿は可愛くてそれを見てるとこどもって素直でいいな〜とおもいます。

歌を歌う楽しさ、詩を朗読したり、絵をかいたりみたり、音楽を聴いたり・・・何気ない日常の幸せを人生の中でたくさん体験して欲しいと思います。
そういう感性こそが生きる力になり、困難のときも魂を殺さずにいきていけるのかなとおもいます。

枯れない魂のエネルギーは「喜び」を感じるときかもしれません。
それを忘れてしまったら、私たちは大切なものを失ってしまう。

大切なことをいつも全身で教えてくれる息子よ。

君の存在に私は常に生かされているよ。

ありがとう

光と影

自然界は光と影でできていますね。
そこに在るから、光で照らされると影ができる。

私たち人間もきっと心の中は光と影がありませんか?

光の部分ばかりみていると、影の部分がひときわ目立って・・・。
影ばかりみていると今度は光を失ってしまう。

心の病はそんなところからくるのかもしれません。
まるでオセロのようです。
真っ黒になると、なかなか白にはもどれない。
たったひとつの白い部分だけは黒い部分と戦っているようにもみえませんか?

だけど、実は白も黒もどちらも私自身。
人間は光と影を同時にもっている存在なのではないかなと。
バランスよく、光と影があれば世の中は美しくあれます。
私もそんな風になりたいものです。

自分のいいところもいやなところもしっかり愛していきたい。

それができたら、生きていくことってずいぶん楽になりますよね?

どんな私でも私が私であったら、それだけで歩き方さえ軽やかになります。

明日どんな不安があるかわからない世の中ですが自分を信じることができれば、不安があっても生きていけるのかもしれません。

いつか夢を見ました。

太古の私です。

明日はマンモスが取れるだろうか??なんて悩んでいる様子でした。でも私は「明日のことはあしたにしかわからん」といって寝てしまいました。
なんかおかしな記憶です。

こんな夢もみました。

また太古です。

そのときのパートナーと月を眺めていました。
「キレイだね〜」
そんな感じ・・・。

それだけの夢。

それだけのこと。

でも共感しあっていて、幸せでした。

この上なく幸せだったのです。

人生ってもしかしてそんなものかもしれません。

太陽があり、月がある。闇があり光がある。
私がいて、あなたがいる。
それだけのことです。

そして幸せがある。


無意識

意識の世界は何パーセントだとおもいますか?
実は7%〜10%。あとは無意識の世界なんです。

アロマテラピーの学校の先生が無意識の力について語っておられました。意識している部分はほんのわずか、ということは無意識の力のほうがずっと大きい。私たちはいつも無意識で何かを行い無意識の力に引きずられている。と。

確かにわたしもそうでした。
自分の無意識に引きずられて生きていたような気がします。
自分のことを知っているようで実は何も知らなかったに等しいのです。

苦しいことも哀しいことも感じなかったことにして幸せなふりをして生きていました。幸せの価値観さえも自分なりのものではなく、親から受けついだものにすぎなかった。それがわかったときは正直びっくりしました。だって私は親の生き方を嫌っていて絶対にこうはならないと心に決めていたからです。
だけど、そのとらわれこそが同じような生き方を無意識で選んでいた。親に逆らいながらも親に愛されたいので、逆らっている自分をどこかで責めていて、結局は同じような価値観を持ってしまっていたのかもしれません。まるで大人の私と子供の私が無意識下でけんかしているみたいでした。

自分の中に刷り込まれた親の価値観はなかなか消えません。
気がついたらまた同じように行動している。私が親に逆らうと小さな子どもが叫びます「そんなんじゃ親にはあいされないよ」そこで大人の私が叫びます。「それでもいい、それでも私はこっちの道をいく」と葛藤を繰り返しながら自分なりの価値観をつくっています。

世界は常に変化している、それなのに心の成長が訪れないわけはない。
だれかがそんなことを書いていました。
争いの多かった時代の精神で今の時代を生きることができないように・・・。
他人に負けないことがいいことではないのです。もともと勝ち負けなど私たちの世界にはなかったのですから。

今、ラッセルの幸福論を読んでいますが、ここには幸福になるためにエッセンスがたくさん秘められています。それは私たちは子供時代にすりこまれた親の価値観を捨てていくことにあると書いてありました。おやから教えられたこと・・・それは親の生きた時代には大切だったことでしょう。しかし私たちの生きる現代は既に貧しくもなく、豊かななかから何かを学ぶしかないのです。

親の世代はいうでしょう。
「私たちの時代は貧しくてがむしゃらに働いたのだ。」と。
しかし、今の時代に貧しさゆえ不のエネルギーで働く人がいるでしょうか?いませんね。明日食う米がない人がいるでしょうか?たぶんそうはいないとおもいます。ですからそんな時代に「不のエネルギーを糧に働く意欲をつける」ことは不可能にちかいのです。
だったら現代はどうやって、何をエネルギーにして生きたらよいのでしょうか?それは多分私たちがみんな模索していることでしょう。現代の私たちは喜びのエネルギーを糧に生きるのが幸福かとおもいます。私たちは豊かになった。豊かな人はその豊かさをいつまでも追い求めるのではなく、分け与えることに喜びを見出していくのかもしれません。

幸福って多分また人それぞれ違うものだと思います。それをお互い認め合って、自分だけの幸福感をかんじられたらそれでよいのかもしれません。

だから私も誰かから私のことを「かわいそうだ」と同情されても少しも苦でないのです。
親から「間違った生き方だ」といわれても、私がそれでよければそれでよいのです。
それに気がつくまで時間がかかりました。これからも模索していきます。
だけど、こうして他人の眼を気にしなくなると生きていくことがこんなにも楽しく軽やかになるものなんだと気がついたのです。

ですから今私たちの育てているこどもはきっと私たちよりも精神性の高いこどもたちではないでしょうか。彼らはもう豊かさをもってうまれている。その豊かさから何を学ぶのか、それは彼らにしかわからない。だから私は「今のは贅沢だ」なんておもいません。贅沢という価値観さえ、ひとりひとり違うからです。今子育てをしていくなかで親たちのほうが学んでいるのかもしれませんね。

成長は不安と共に

こんにちは、

息子が年中サンになりました。
昨日は初日で「先生が変わったよ」「部屋がおおきくなったの」
なんてお話してくれました。
ほほえましい限り。

しかし、年少が終わりころになったときから小さな腹痛をしょっちゅう訴えてくるようになりました。
春休みが始まる前でしたか。
「ママ、おなか痛いよ」
さすってやると2分くらいでおさまります。
きっと成長への不安だなとおもい、
「おなかが痛くなっても天使がやってきてなおしてくれるから大丈夫!」
といって優しく撫で回します。
天使が気に入ったようで、
「天使くるの?」とよく聞かれます。
「おなか痛いとママの代わりに来てくれるから、幼稚園で痛くなっても大丈夫でしょう?」
といったら「大丈夫!」といっていました。

こどもは成長への喜びとともに、なかならず不安が伴います。それは大人でも同じではないでしょうか?
それが身体にでるんですね。
「成長したいけど、でも怖い」そんな心の声が聞こえてきます。
いつまでも年少ではいられない、部屋も変わり、慣れ親しんだ先生ともお別れ。
だけど、楽しかった思い出はなくならない。
ずっと心の宝物になるから・・・。

だから成長するとき、思い出だけもって次のステップにいけるんですね。

私にもそんな成長の階段がなんどもありました。この年になってもです。
去年学校に行き始めたとき、とても不安でした。こどもが病気にならないか、ベビーシッターをしてくれる友人になれてくれるかどうか、いろいろな不安とともに歩き出しました。最初はなかなかなれなくて
問題があるたびに「もうできないかも」とへこたれたことも・・・。
だけど、半年たったころでしょうか、「きがついたらうだうだいいながらもここまできた!」
とおもったのです。
うだうだいいながら、不安をもったままでも私は歩いていました。
「なんだ、あんた、うだうだいいながらできるじゃん!」なんて自分に思いました。
そうですね、ここまできたんだから。

そんな気持ちでこの3月に卒業しました。
また卒業のときはひとりで泣いちゃいました。
学校の卒業式で泣いたことも、こどもの成長で泣いたこともなかったのに、自分の成長ぶりに「ないてら・・・」なんてね。

だからこどもの成長への不安もよくわかる。
可愛いものです。

昨日息子が食事中にまたおなかが痛いといいました。
「食べ過ぎた?」ときいたら
長い沈黙のあと・・・

「大きくなるからだよ。Lはもうつばめ組だからね」だって。

なんだ、あんたも自覚ありかい。
わたしよりすごいね。


サクラ

ここ、埼玉の奥地では都内より少し遅めの今週末が桜満開!

桜を眺めながら、辛い記憶をつい思い出した。

4年前、北イタリアの誰にも知られぬ街でひとり桜のつぼみを眺めていました。7ヶ月になるルカを連れて行った北イタリア、心の病のはじまりにもなった土地です。
桜が咲くまでは我慢しようとおもったけれど、最初に悲鳴をあげたのは心のほうで・・・。
結局体調が悪くなった私。
もうすべてがめんどくさくなり、「しんじゃいたい」
そればかりが頭の中をぐるぐるしてきて。

あれからもう4年だ〜。

あの時の私は今の私をしらない。
あの時の私はその後の変化を想像はできない。

あれからずいぶん変わりました。

だからね、簡単にしなないでほしいのよ。
しにたいと思ったことは事実、しにたいほど辛かったのも。
だけど、状況は変わるから。
心もかわっていくから。
ずっと同じじゃないから。桜が咲くみたいに、まだつぼみをつけていないときでも、ちゃんと準備をしてるから、春の準備をしてるから、枯れた木だなんて思わないでほしいのよ。

最近「心の病」から育児がしんどくなってこどもの命を奪ってしまったお母さんがいたけれど、だれも彼女の心に耳を傾けてくれる人がいなかったのかもしれないね。本当は自分が自分をたくさん褒めてあげられたらよかったのだけど、シンプルだけど難しい・・・。
つらいことがあってもそれがずっと続かないこと、希望をもっていれば希望が芽吹くことを春になると思い出します。

今桜の花を見ている私は多分等身大の私です。



心機一転

心機一転タイトルも変えてみました。

ブログ名のロゴスの意味は大好きな精神科医のフランクルのロゴセラピーからとりました。ロゴスは無意識や人の愛を表します。
はフランクル自身が考えた精神療法で、そのひとのもつ本質を見つけ出す、思い出す手助けをします。

フランクルはこの世界は愛情を軸にまわっていると言い切っているくらい、愛の大切さをセラピーの軸にしています。
私はかつて愛なんてうさんくさいな〜とか、信じられんな〜とけっこう斜めにみるタイプでした。
だけど、自分がいろいろな壁にぶつかって、心の病に陥り、そんなときに心から私を大切にしてくれる人の存在に気がつきました。それっていわゆる男と女の愛ではなくて、人間愛のようなものでした。
いろんな人のサポート、愛情に触れて少しづつ立ち直った私ですが、今思うのは人の愛情にふれることはどんなセラピーよりも効果があると思いました。
私は今、カウンセラーのなるべく勉強もしていますが、あくまでもそれは技術的なことであり、結局はどこまで相手に愛情をかけてあげられるかなのかなっておもうようになりました。すごく難しいんだけどね・・・。

えらそうなことは何一ついえないけど、ただロゴス・カフェでは心と身体のお話をしていこうかなとおもいます。訪ねてくださる方々にはコメントも無理に求めないし、自分を感じる時間をもってくださればとおもいます。私もついつい自分を見失ってしまうので、ここで書くことでまた自分をみつけだしていければと思います。私もあなたもたぶんなにも変わらない一人の人間ですものね。

人間はたった一人だったらなにも感じられないのですって、相手があるから自分を感じる。そうおもうと何気なく存在する周りの人間も自分を映し出す鏡です。
他人とのコミュニケーションは大切ですね。