こどものきもち

こどものきもちってみんなわかっているのかな?

じぶんのきもちもわかっていなかったら、こどものきもちなんてわかりようがないよね。

「こどものきもち、わかってるんだけど・・・」といって悩む親って私はけっこう好きです。

こどものことで、真剣に悩む姿ってそれこそ本当の親の姿かなっておもいます。

「うちのこはこうだから」と決め付けてしまっているほうが私はずっとこわい。

そういうひとにかぎって、自分の感情もよくわかってないんじゃないかっておもうことがあります。

子どものすばらしさは「身体で感じる、心で感じる力」

だから、こどもにいわれたことってけっこう当たってる・・・。

子どもの言葉で、「自分に気がつく」ことっていっぱいある。

だけど、親って「親だから」といって威張ってる。

わたしもよくやっちゃうけど、自分が感情的になってこと、「子どものため」とかいってすりかえちゃった

りしたこと、よくある。

最近はさっさとあやまっちゃうけどね。

先日池袋駅でスイカにチャージしてたら、背中にすごい衝撃が!!

腰がものすごくいたくて、脊髄損傷か!ってくらい痛かった!

振り向くと息子がにまにま・・・。

かなり感情的になって息子の肩をおもいっきりたたきました!

「痛いじゃない!」

とここまでの時間は3秒くらい??

私も久々に怒りのあまり手が出ました・・・。

怒られた息子は「あれ?」

って感じでしたけど、いい加減自分の力の強さ、自覚してください。

これをもし、友達にやっちゃったや、それこそ吹っ飛んでしまいますよ・・・。

そこで私は「不意打ちでそういうことはしないように!」と冷静に叱って、あとは山手線にのりこみました。

山の手線のなかで息子がちょっぴりしょんぼり。

「ママって、あんなに激怒しなくたっていいのに。。。」

そんな心の声が聞こえました。

「ね、さっきすごい怒ってごめん。だけど、背中は大切な骨があるから、突然あんなふうに突き飛ばされたら息もできないし、本当に痛かったの。だから、叩くつもりはなかったけど、叩いちゃった。ごめんね。」

と素直にあやまりました。

すると、

「それって、仕返し??」

と息子がぽつり。

「・・・。」

そのつもりはないけど、そうかも・・・。(苦笑)

「仕返し・・・のつもりじゃないけど、ごめんね。」

「うん。」

「ママの気持ちもわかったかな?自分はふざけてても、Lは力が強いからママは痛かったの。」

「うん、わかった。でもLが悪いことしても、Lのことは嫌いにならないよね?」

「もちろん!だってLはママの宝物だもん!」

というわけで、解決??

というか、でもでも、仕返しって・・・。どっちかというと私の性格は凶暴きわまりないほうだから、

子どもの言葉はよい反省の言葉。

「叩くな」といって、自分が子ども叩いてりゃ、意味ないもんね〜。

こどもに「思いやりを持ちなさい」といっておいて、自分が一番なかったりするみたいに。

子どもは何でも知ってる。

だからこどもの感じ方はいつも正しいのだ!

こどものきもち、知りたいようで知りたくない。これは親の本音かな??

一番の友はこども

自分に一番影響力を与えるのはこどもです。

こどもほど自分に厳しく、優しいひとはいない。

こどもの様子をみていれば、今の自分の状態に気がつきます。

先日より、息子の口が異常に悪くなっていました。

口から出る言葉は「ばかばか」「うるせー」

あらら〜。もちろん成長の分岐点でそういうこともありますが、ちょっとあまりにも攻撃性がつよくなってきていたので、自分自身をみつめることにしました。

4月から、新しい生活がはじまり、お互いに疲れが見えたころかもしれません。

自分のなかに埋もれてしまった感情があるかもしれません。

そういう時に「話す」ことは大切です。

話していくうちに自然に自分で答えを出していける。ですが、話す相手は自分の味方をしてくれる人で

はなく、冷静に客観的に自分を見てくれる人がよいのです。

今回自分がつまづいているポイント、それは勉強でした。

今いっているカウンセリングの学校でのトレーニングが思いのほかきつかった。

それになかなか自分がきづけなかった。

本当にそれを自分がやりたいのか?

喜びがあるのか?

そんなことを考える暇もなく入学してしまった。

トレーニングの最中にどうしても「状況の整理」のための質問ができなくなっていました。

(トレーニングとは相手の話を受容的に自分の価値観を入れずに聞くことです)

どうして自分は今質問ができないのか?

それはまさに「自分が人から質問されたくない」からでした。

ですから質問ができない・・・。

自分の生活をどこかで自分自身がまだ受け入れていないことに気がつきました。

心から、自分を許していないことも・・・。

自分を大切にできていなかった。

今、なにをすればいいのか?

洗濯より、お料理より、勉強より、自分のケアをしなければならないのだな。

と思いました。

母親の仕事はエンドレス、いつもなにかを求められる、それに冷静に愛情を持って対応することができ

なくなり、最近は息子の欲求に「対応」していくことが難しくなっていました。

息子がすぐに「めんどくさい」といいます。

「めんどくさい」

もしかして私自身が心の中でいっていたかもしれません。

息子になにか頼まれたとき、いやいややっていたかもしれません。

そんな私を見て、息子は私の心の言葉をかわりにいってくれたのかもしれない・・・。

「めんどくさい」「ばかばか」「うるせー」

いわれてみると、私の心がとても疲れていたかもしれない・・・。

友達に、「ねえ、あんたそれで楽しいの??人救ってる場合じゃないよ。自分救いなさい!」

といわれ、「あ〜そうかも・・・。」

とおもいました。

離婚してからただひたすらに歩いてきたけど、まだそのときの辛さを引きずっていた。

それなのに他人のサポートでいつのまにかいっぱいいっぱいになっていたかもしれない。

自分の心をいつもクリアにしていないと、ついつい相手に自分の心を投影してしまい、方向性が

みえなくなってしまう。

一度間違って走り出した船、違った方向に走りだした船、イカリをおろしてくれるのは間違いなく

「こども」です。違った方向に向かっている私をみていてくれる友人たち、陸からどんなに叫んでも

聞こえないように、走ってる私自身が間違いにきがついて、じぶんから「SOS」の無線をならさなくては

誰も私を救えない。私を救えるのは、わたしだけです。

そして、私を一番心配して、無意識で救ってくれるのはまぎれもない、息子・・・。

だから、どこでなにを間違ったのか、真剣に考えるのです。

こどもの病気、こどもの言葉、態度、こどもをみれば私がわかる・・・。

そして、子どもの欲しいものではなく、「私のあげたいもの」をあげていなかったか、かんがえます。

エゴが強くなっていなかったか。

人を批判しなかったか。

私自身を批判しなかったか。

自分の軸をもてていたか。

「あ〜またやっちゃった。何度まちがえば気が済むんだ!!」

そう思いながら、でも私は歩いていきます。

自分の道を歩くのは私だけです。

間違いながらしか歩けない、でもそのたびに自分を許していけるかどうか。

それが私の課題です。

それぞれの与えられた試練を受け入れ、乗り越えていく。

息子は息子でもう自分の道を歩いているのでしょう。

いつもいつも「自分」でいてもいい。

忘れてしまいます。

しっかり感じていきましょう。
michi


フランスに住んでいたころの私たち、どんなに辛いときも私の心の支えだった息子。
私の辛い気持ちに寄り添ってくれた息子、私が悪い母親でも、厳しくてひどかったときも、見放さないで態度で教えてくれた息子。

私が自分に気がつき始めたとき、「ママ、これでちゃんと走れるね」といってくれたこと。

離婚するときも、二人で話し合って小さいながらに理解しようと努めてくれた事。

いつも私をずっと見ていてくれた気がします。

いつかわたしから離れて、遠く、遠くまでいったとしても私は息子をずっと見守っていたい。

息子からもらったものを私が返していくだけです。

本当に、いつもありがとう。

出会いは神様からの贈り物

一昨日、凄い出会いがありました。

学校で偶然トレーニングが一緒になった方とちらっと話したところ、職種が似ていること、今までの人生にあまりにも共通点があったことです。

すぐさま一緒にランチしましたが、話せば話すほど共通点があり、話のあうこと〜!!
自分がつまずいている問題でさえ、感じていることさえ、とても似ていたわけです。

そして私たち、どちらも「信仰」の大切さに気がついたことです。

信仰というと胡散臭いと思いがちですが、私たちは生きていくうえでいろんな問題、辛い経験もあります。そんな時、真っ暗なトンネルにいるとき、何が自分を支えたか。最後の最後は「神様」の存在でした。それは何の神様という特別なものではなく、森羅万象、宇宙の大きさ・・・自分は小さな存在だと認識し、「ゆだねる」ことに近い感覚でした。
ですから問題がどんなに解決しない感じがしても、「きっと見守ってくださる」と強く信じて歩いてきたような感じです。
私自身は仏陀やお釈迦様の言葉にとても感動し、般若心経を読んだりもしました。

どんな神様でも私たちを見守ってくださることにはかわりがないのです。

苦しい体験をして、初めて真剣に「祈り」を大切にした私たち。「愛情」ってなんなんだろう?そんなこともお互いに真剣に考えたようにおもいます。

たった1時間の間でしたがとても深い話ができたとかんじました。

一年前もそんな出会いがありました。
自分が気がつき始めているなにかを教えてくれた人でした。

偶然出会い、話し、救われ、生きる方向性が見えてきた出会いでした。
まよったとき、彼女に会いに行くことがあります。

いつも彼女がいうこと

「こうしてお互いにいつもなにかを受け取っている」

その感覚は今までにはない感覚でした。

どんな出会いも、お互いの学びのため・・・。

だから私はいつも出会いで人は変われるのでは?とおもいます。

実際私もこの一年で多くの人に出会い、「神様の贈り物」を受け取ってきました。

そのたびに「大丈夫なんだな〜」と。

真っ暗なトンネルの中での一筋の光のように、出あったひとが分岐点になってくれたようにおもいます。

切れてしまった関係、始まった関係、どんな関係性も自分にとっては学びであり、成長の糧なんだなとおもいます。
だから誰も恨まずに一人歩けるのかもしれません。
いつも照らしてくれる神さまがいるから耐えられるのかもしれません。

私がいつもこどもに教えていること、

「いつも神様がまもってくださるよ」

その言葉だけでこどもは安心して、人生を歩んでいけるのかもしれない。日本では信仰というと胡散臭さがあるけれど、どの国もなんらかの信仰があり、習慣があり、そういうなかで人間も踏み外さずに生きていけるのかもしれない。誰も見ていないとおもうより、誰かが見ているとおもえば自然に行動もかわってくるように・・・。

というわけで、私はどんな宗教でも神でも信じています。
ただ「守られている」と感じることが私たち小さな存在には必要なのかもしれません。

明日地球がなくなれば私たちの問題も悩みも一瞬で消えてしまうから。
だったら、その悩みのすべてをゆだねて楽しく、流れにのって生きたほうがずっといいとおもう。
悩んでいることで自分を苦しめるより、いつか終わる命を精一杯生きたほうがずっと後悔しないと思う。精一杯とは無理に頑張ることではなく、素直に生きることなのかなと最近は思います。

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(2007/02)
アルボムッレ・スマナサーラ

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私が一番悩んでいたときに出あった本。
本屋でなんとなく、買い、衝撃になりました。

人も本も音楽も・・・すべて良いタイミングで出会い、そしてちゃんと進んでいける。
だからいつも「出会いこそは神様からの贈り物」だとおもいます。

完璧はつまらない

育児をしているといろんな問題にぶちあたることがありますね。
お母さんも頭をうちながら、懸命に考える・・・けれども育児に関しては「正しい答え」はありません。
十人十色といいますが、ほんとうにその通りで、百人百色・・・世の中に誰ひとり同じ人間はいないわけです。
ですから育児だっていろんな回答があっていいのだとおもいます。
いろんな考えの中で育つから、子どもたちもそれぞれの持ち味がうまれ、補い合っていきていくのではないでしょうか?

最近私がとても気になることがあります。
親がこどもに「完璧であること」を求めすぎているような気がします。
完璧であること・・・

完璧さからうまれるものっっていったいなんでしょうか?
完璧であれば生きていくのは楽ですか?
完璧であれば、だれにも頼らないで生きていけますか?

私は、完璧であることは「つまらない」と感じます。
だって一人で生きていけるなんてつまんなくないですか?
もちろん一人の時間も大切ですけど、誰かと共に過ごす時間も楽しいとおもいませんか?
誰かを助けたら、楽しくないですか?
助けられたらうれしくなりませんか?
完璧じゃなくても、いいところがあって、そこが評価されてたらうれしくないですか?
みんなと、補い合って生きていったほうが楽しいし、楽ではないですか?

大体完璧なんて、人間が完璧になんてできますかね??
多分無理。それをやろうとしてる人がいる、やらせようとしているひとがいる。
そんな社会で生きてたら、息が詰まってしまう。
だから堂々といったらいいのに。

「完璧じゃないから、助けて欲しい」

それだけのことなのに、

私もなかなか言えなかった。(笑)

だっていつも完璧であることを求められていたから、それが自分の中で当たり前になっていたし、

完璧じゃなかったら愛されないっておもっていたんですね。

だから「完璧」であるように、いつも緊張していたから、自分がなんだったのかいつのまに忘れちゃったんです。

「しっかりもの」の役を与えられると、一生懸命演じるでしょう?そうするといつのまにか板についちゃって、なんだか本来の自分を忘れて、ステージ終わっても、まだまだ一人で役を演じているようなもの。
いつのまにか、それが自分だと思い込んで、「世間から認められてる役柄」をいつまでもいつまでも演じているようなものです。

それっていつから始まるんでしょうか?

赤ちゃんのころからやってるわけですね。

うちの子は3歳くらいのとき、くしゃみをしたらたまたま変な音になって、それを私が笑ったんです。

「おもしろい音したね」

そういったら、なぜか喜んでそれからは一生懸命くしゃみのたびに変な音を出そうとします。

2年近くたった今もそのくしゃみをするんです。

それは

「うけた」

からですよね。(笑)

こどもはいつも「親からうけいれられたい」から

喜ばれるようにしているわけです。

だけど、「もっと普通でいいよ」といってあげたいのです。

おもしろくなくても、いい子じゃなくても、私の宝であることには代わりがないから。

だから、無理してよろこばせなくてもいいよっておもいます。

「どんな表情」をみせたとしても、それはそれですべてがその子の中にある。

完璧さより、素直さ、それも自分に対する素直な心を常にもってほしいとおもう。

頑張らないと「認めてもらえない」と愛されないって、こどもはいつのまにか感じるようになる。

だから一生懸命「よいこ」を演じているわけです。

お母さんが、お父さんが「完璧さ」を自分に求めていると、こどもはいつの間にか「自分も完璧にならなければ」とおもってしまいます。

親が人に助けを求めない姿もしっかりこどもにはうつっています。

親が弱音をはかないと、こどももいつのまにか弱音をいけないことととらえます。

もしお母さんが友達とよく話していたら、こどもはそれを良く見ています。

「友達と話して笑ってるお母さん」を知っています。

時々は泣いているお母さんも知ってる。

「ふ〜ん、お母さんも弱いんだな」「人に助けてもらってるんだな」

とこどもは学習していきます。

誰かと話した後のお母さん、すっきりしててまた笑顔になってる。そうおもったら、「人は怖くないものだ」

とこどものなかにしっかり根付いていきます。

お母さんの生きる姿はそれだけでこどもの生き方のモデルとなるわけです。

「堂々と不完全であることを楽しんでいるお母さん」

生きていることが楽しいとおもいませんか?

誰かに助けてもらったら、その人に返さなくてもいい。

他の誰かに返していけばいい。

そんな風に思えたら世界はとても生きやすくなりませんか?

「いつも迷惑かけている」と悲観的になるより、助けてもらった分、誰かに返していけばよい。

そう思えばずっとずっと楽になるのです。

私もかつては一人で戦場にいつようなものでした。

とりあえず自分の身はまもれてるけど、いつも戦ってばかりでつかれるわけです。

そして誰と戦っていたかって??

それは紛れもないもう一人の自分でした。

「お互いやめませんか?」といったら、あっけなく終戦。

ありがとう。


みんな「完璧はお母さん」をやめませんか?

そしたらずっと楽になるよ。

純なこころ

こどもをみていると「純なこころ」を思い出します。

そうですね、私たちは本当はうまれついてみな純な心をもっているのです。

しかし、大人によって生育の最終にいろんなことを忘れ、葬り去られてしまいます。

私たち養育する立場の大人がいつも純なこころをもっていたい。

こどものきもちを一番に理解できる大人でいたいのです。

純な心ってなんでしょうか?

それは自分の感情を素直に感じられる心ではないでしょうか?

私たちはいろんな感情をもっているものですね。

怒り、嫉妬、憎しみ、悲しみ、羞恥心、闘争心、

喜び、楽しみ、達成感、慈しみ、わくわくする気持ち、誰かを助けたいと思う気持ち・・・いろいろあるものです。

そんな気持ちを素直に感じて、いいわるいもなく、表現できたらどんなに気持ちが良いでしょうか?

昨日、私は言いたい気持ちをなかなか言葉にできず、一日中不機嫌で冷たい女でした。

自分でも伝えたい気持ちがあるのに、どう伝えて良いかわからなかったり、もうひとつは恥ずかしい

という気持ちもありました。

「こんなことで怒ってるなんて、こどもっぽい」とかそんな気持ちです。

どうして自分の気持ちを素直に言えずに我慢して、また我慢している自分にも腹を立て、不機嫌でいるのでしょう?

不機嫌でいてもいいことはないのに・・・。

探っていくと色んな感情があります。

劣等感や羞恥心、プライドの高さもありますね。

こどものころ、素直に親に自分の不安を話したら

「くだならい」

といわれたことがあったり、

「つまんないことで泣かないで!」

といわれたりしたことがだれでもあるとおもいます。

そんなことをいわれ続けると、私たちは純なこころを閉じ込めてしまいます。

「今感じていることはくだらないこと」

「今かんじていることは恥ずかしいこと」

といつのまにかその感情を感じないように無意識で操作しようとします。

私は不安を感じると「感じないふり」をしたり、心配を無視したりする癖がありました。

だからといって心配はなくならず、不安が減るわけでもなく、いつもそこに不安の巣窟となって

存在していました。

「不安を感じることは悪いこと」と思いこんでいるので、他人に伝えるのが恥ずかしかったり、

言葉でうまく表現できなかったりします。

感じて外にうまく出せないので、無意識の中は不安の波がいつも静まることを知りません。

どうしたら安心できるんだろう?

私は過去にも言いたいことがいえなくて自分をたくさん傷つけて一人で孤独におちいり、間違いを

犯してきました・・・。

だから今度は伝えたいのです。

大切な人には小さな気持ちでも伝えたいのです。

相手は以前私を傷つけたあの人ではない。受け入れてくれなかったあの人ではない。

では伝えられるはずです。

私は勇気を出して自分のこどもっぽい気持ちを相手につたえました。

「私はこう感じた。」

と説明しました。

返ってきた言葉は

「ごめん」

理解された瞬間に私の感情は浄化します。

ありがとう、聞いてくれて。

それで終わりなんです。

だけど、なかなかこのプロセスがみんなできない。

それはきっと子どものころに感じた感情を大切な人から「拒否」された経験があるからかもしれません。

そういう経験が多いと「相手は自分の気持ちなど分かってくれるはずがない」と身構えてしまうのです。

でも本当はそうじゃないんですね。

聞いてくれる人もたくさんいます、理解してくれる人も。

だけど、自分が人間を誤解している限り、いつも人間は冷たいと感じるのです。

私は相手が温かい人だと理解していても、自分の気持ちをずっと言えませんでした。

10年たって、やっと言えたおもいもありました。

「言えた」ということは「癒えた」ということです。

自分勝手に傷ついてきた感情をやっと手放した気分でした。

長い年月でした。

子どもを見ているとどうでしょう。

「今日ね〜、泣いたの」

うちのこはよくこういいます。

「何で?」

「え?ママに会いたくて・・・」

「そっか、ママもいつも思ってるよ。」

「うん」

こんな会話だけでこどもは「泣いてもいいんだな」とおもって自分の基地をつくっていけます。

しかしこうだったらどうでしょう。

「きょうね、泣いたの」

「泣き虫だね」

こんな風にいわれたらいかがですか?

大人だって悲しくなりませんか?

もしこんな風にいってしまうあなたがいたとするならば、あなたの中に「泣くことは恥ずかしい」

という気持ちが潜んでいるかもしれませんね。

潜んでいるものに聞いてみたらどうですか?

「どうして泣くのは恥ずかしいの?」

自分はなんと答えるでしょうか?

私たちは無意識でいろんな感情を感じることを恐れている。

でもその恐れを手放したら、生きていくことは楽で、育児も楽しくなります。

感じて、手放す。

純なこころを取り戻すとすべてが変わってきます。

こどもたちを見るとわかるでしょう。

ころころと表情を変えて、実に楽しそうですね。

こどもは自然に感情を芽生えさせていきます。

その流れに従うこと、大人が阻まずにいること、それだけで純な心はそだっていく。

そしていずれしなやかな心になり、感情に揺れ動いても「それが当たり前だ」と受け入れ、

感情を持つことを恐れなくなります。

感情を持つこと、それは辛いときもあるけど、たのしいこともある。

感情はただそこにあるだけのことです。

いい悪いもない。

それだけのことです。

赦すことの難しさ

ゆるすってなんて難しいんだろう!

私は常に自分も人も赦しているつもりであるが、まだまだ自分の腹の中、いや無意識に怒り、悲しみがあることに気がつかされた。この気持ちをもっているかぎりはカウンセラーになることもできないとおもう。なぜなら「投影」(心をなにかに映し出すこと、物や人など)をして、苦しんでしまうからだ。

私は実にいろんな感情の引き出しをもっている。しかし、私の中で一番強い感情は常に怒りであった。その怒りこそが自分の心を支配し、怒りこそが自分を傷つけ、他人も傷つけてきた。怒りのエネルギーをなにか生きる糧にしていた。その怒りはどこからきたのか、ずっとわからなかった。ただ、いつも私は怒っていたし、何かが不満で人を赦せなかった。

その気持ちの根源を私はゆっくりと知ることになった。
そう、自分がその怒りで押しつぶされ、コントロールできなくなり、初めて自分の内側にむかって助けをもとめた。そう、自分の中にしか答えはないから。

私の無意識の中には地雷のようにいろんなところに、怒りを眠らせていた。
私はひとつづつ、その地雷の始末を始めた。始末をするときはかならず「爆発」をしなければならず、
「爆発」についていくだけの時間、体力、支え、勇気、そして自分への慈しみをわすれてはならなかった。ひとつひとつ、「この怒りはあのときの怒り」なんだ。と思いながら「爆破」します。かならずものすごい感情が自分から飛び出してくる。それに付き合い、感じて、手放す。するとそれでもう二度と苦しまない。だけど、その一瞬の爆破を恐れて、私たちはみんなしりごみしてしまう。

私が地雷の始末をしているとき、パートナーはただ冷静に私をみつめていただけだ。
なにもしなかった。だだ懸命に話を聞いてくれた。肯定も否定もしなかった。身体がぼろぼろになって(本当になります)気管支炎とアトピーが異常にひどくなり、熱が出たり、眠れない日々が続いた。
自分の心のお掃除がこんなにもつらいとはおもわなかった。
ひたすら、こどもにだけは悟られないようにしていた。(きっとわかっていたとおもうけど)
母親とは心から母親でいるひつようはない。どうしても優しい母親でいられないときは自分にも時間を与えるべきだし、優しくできないときは「仮面母親」だっていい。そのときだけでも「母親を演じる」のだ。あとは自分でいてもいい。
24時間母親でいることはだれにもできないから。

息子とパートナーにはきっと迷惑をかけたと思う。その間、アロマテラピーの施術をうけたり、カウンセリングにいったり、友人に話したり、実に多くの人の愛情にふれながら「地雷」の始末にはげみました。そして、もう地雷はないかなっておもっていたところ・・・。

まだありました・・・。それに気がついて。
そうか、まだありましたか。
ではでは始末しましょうね。
でもね、何回もやってるもんで、お手のもの。
もうあんまり被害もなく、爆発寸前で逃げて、遠くからみてることだってできるから。(笑)

さて、どうやってやるか教えます。

「マイナスの感情」を感じたら

もう一度感じる。
「私はこのことで怒っていた」と自覚します。
ノートに書いてもいい。
声に出してもいい。
そして、涙がでたり、怒りがわいてくるかも・・・。
しっかり、感じて、そしてゆっくり呼吸して・・・。
「大丈夫、自分でいてもいい。」
と唱えます。
私はいつも
「私は愛されている」
とか
「私は私でいい」
と唱えます。

生まれてから、もしかしたら生まれる前から私は赦す」ことが苦手だった。
だから神様はあえて私を母の元におくったのでしょう。そして、私は多くの怒りを母からもらい、多くの苦しみを引き受けて、必死で逃れるためにここまできたのかもしれない。
「誰かが悪い」わけではない。

ただ「学ぶ」ために生まれたから、

楽しむために生まれたから、

自分の苦しみは自分で取り除いていく。

自分の人生のテーマについて気がついていけばいいだけです。

私のテーマは「赦し、と愛」

自分を赦すこと、相手を赦すこと、そしてこの怒りの源になった人を赦すことです。

私のようなひとだけではなく、

「はっきりいうこと」が苦手だったり

「厳しさ」を持つことができない人もいる。

そういうひとは「伝えること、勇気」を学ばなければならないかもしれない。

どんな人生でも「学ぶ」ことで癒されていく。

自分の腹の中にある、傷ついた私を掘り起こすことから。

いつもどんなときも神様は見放さないでいてくれるものですね。

無意識の世界は広いから、まだまだ地雷は眠ってる。

また出会いがあって、気がつくのかもしれない。

いつか誰でも赦せる日がきます様に。

眠っていた種

生きるってことについては「「こども」のほうがずっとうまいとおもう。

シンプルに、でも着実に成長している。

そして何も教えないほうが、ずっとうまくいくんです。

人生の楽しみ方もずっとよくしっています。

だからいつも、私のほうがいろいろ教わっています。

先日もこんなことがありました。

昨年の11月に息子が骨折しました。

そのとき、何かの楽しみにとプランターにレモンバームの種を植えました。

季節はずれだったためか、芽は出ず、いつのまにか放置され、雨風、雪にさらされ、結局なにも変化

のないまま冬を越してしまいました。

私はてっきり芽は死んだものと思っていました・・・。

もう発芽はしないんだろうなと。

しかし、息子はまったくなんの疑問もなく、芽が出ることを信じていました。

さすがの私も「きっと芽は出ないから、新しい種を植えようか?」といいました。

しかし息子は「春になったから芽が出るかも。。。」

とやっぱりなんの疑問も持たず、信じている様子でした。

あたたかくなった日、2度ほど水をあげてみました。これで芽が出なかったらあきらめようとおもいました。

すると、どうでしょう、たった2日後に小さな芽が土の間から顔をだしました。

すごいな〜。

その種の生命力と自然の力に感動しました。

そして、息子の信じる力にも。

大人になって、いつのまにか「信じること」より「あきらめること」ばかりが身体に染み付いています。

パターンを変えたくて、努力はしているものの、やっぱり「あきらめ」のほうがずっとたやすいから、

またすぐにあきらめようとする自分がいます。

「信じること」は「待つこと」だから。

春を信じて長い冬を待つこと、耐えること、なかなかできることではない。

逃げたり、あきらめたりするほうがずっと楽だから。

息子と森にいったら、どんぐりの実から小さな芽が出ていました。

そうね、考えてみたら種はみんな冬を越せるんだ。

秋に実をつけた木が実を土に振り落とし、冬の間眠る。実際芽を出すのは目覚めの春。

それなのに、そんな自然の摂理もつい忘れて、「芽はすぐでないとだめ」と思い込んでいる自分がいました。

「成長はすぐにしなければなりませんか?」

そんなことはない。

「待つこと」

そのときがくるまで待つこともとても大切なのです。

でもそのときがきても「水」や「光」がなければ育たない。

それは人間もおなじかもしれない。

「そのとき」まで私たちは眠っているのかもしれない。

でも「信じること」でいつか芽が出ることもある。

逃げずに待つことも大切だと息子と自然が教えてくれました。

いつも私に大切なことを教えてくれる息子へ、

感謝

やりかけの宿題、やらなかった宿題

GWはいかがでしたか?

こちらは毎日それなりに楽しい時間をすごしました。
最終日の昨日は河原でバーベキューをしました。
自然の恵みをいっぱいいただきました。

一昨日は一年間カウンセリングを学んだ
アイデアヒューマンサポートサービス
での「修了パーティー」がありました。

クラスカウンセラーの方から(担任の先生のような感じです)
花束をいただきました。
この修了パーティーでは自分のイメージにぴったりの花を選んでくださるときき、とても楽しみにしていました。
私の前の方々も花束と一言を頂き、感動している様子でした。

さて自分はどんな花をいただけるのか、どんな言葉をかけてもらえるのか・・・。
そんな希望と期待と、緊張のなか私の番がきました。

私のイメージフラワーはガーベラでした。
ガーベラは私自身も自分にぴったりだな〜と若いころおもっていました。

お世話になったクラスカウンセラーの方から
「頑張りすぎないでいい、一人で頑張らないで、時には助けを求めてもいいんだよ」
といわれました。
明るいガーベラの花が時々くったりと下を向いてしまうこと、そんなことにたとえて話してくれました。

なぜか昔から「人に頼ってはいけない」という言葉が自分の胸につよく突き刺さっていました。

どうしても弱音を吐けない。

辛くても笑ってごまかしてしまう。

辛い、助けてって言えない・・・。

そんな自分とうまく付き合うことができなかった。

ボロボロになるまで自分を酷使してしまう。

そうしないといられない自分がいたんです。

そうなってはじめて気がつくことがある。

「またやってしまった・・・。」

そうやって何度も痛い目にあいながら、どうやって「自分を赦せるようになるのか」

ずっと考えていました。

「ボロボロになるまで助けてって言えない」

その理由は?

なぜなんだろう?

そんな苦しさから抜け出すチャンスを与えてくれたアイデア
です。学び、気づき、そして赦し、幸せになりたいとおもいました。

私が今までずっとやらなかった宿題、夏休みの終わりになってもやらなかった宿題がずっと私を追いかけてきた。

「この宿題、いまやる?やらない?」

まるで過去生からの問いかけのようです。

今やることにし、取り組んでいます。

人を赦すこと、私を赦すこと。

なかなかできなかった宿題。

ずっと放置したやりかけの宿題。

一人ではできないけど、

いつも励ましてくれるひとたちとともに、

やっています。

「頑張りすぎること」

そんなにいいことではない。

「弱音はいてもいいんだ!」

そう思えるまで何年もかかったけど、今は言えます。

「助けてね!」

被害者意識

先日車の運転中に右側から突然車が飛び出してきたようにみえました。

おもいっきりブレーキを踏んで、驚きました。

相手もなんだか驚いていたような??

とにかく後でパートナーにその話をすると・・・。

「本当に相手は君を見ていなかったか?」

「本当に飛び出してきたのか?」

「本当に急ブレーキをかける必要があったのか?」

と質問攻めに・・・。(コワ)

彼は私の運転を良く見ていて、

「ブレーキをかけすぎる」

といつも指摘します。

もしかして、「被害者意識」かもしれません。

相手はまったくこちらを攻撃するつもりがなくても、本人が「自分は攻撃される」といつも感じていると

必ずなにか動きに変化があらわれます。

良くあることは歩いていて誰かが「ばかやろー」と叫んだら、それが自分に向かっていなくても自分に

むかっていると勘違いしてしまうことです。

注意されているのは自分じゃなくても、自分にむかっていると感じる。

誰かがクスクス笑っていると、自分が笑われているのでは?と感じることが「被害妄想」

私もかつて二人の人間から猛烈に攻撃をうけたことがあり、それが引き金となって、「世界中から嫌われている」とかんじたことがありました。

被害妄想ですよね〜。

そこでどうやって治したかっていうと、考えることをやめることにしました。

なんだか精神的に疲れてくると被害妄想が始まるので、まず「自分は今疲れすぎていないか?」

と確認したり、疲れの原因をしっかり見定めたりすると意外とすんなり「被害妄想」も治ります。

「ああ、これは過去の傷がうづいているだけ」とおもえば、何てことないのです。

ただ「自分はまたやってしまった」とか

「被害妄想の自分は嫌いだ」

などと思わないことです。

「過去がまだ癒されきっていないのだ」と

感じるだけでいい。

それ以外は考えない。

「きっと、うまくいく」

そうおもうだけでいいのではないかなとおもう。

うちの母もものすごい被害妄想の人で

運転中にクラクションならしまくってます。(笑)

失敗は悪だ!とおもっているとすべての行動に緊張が伴う。

だから、被害妄想の人は「宇宙」を信じていないのかもしれません。

生きていくのがしんどいのかもしれません。

私は疲れたときいつも「守られている」と感じることにしています。

一度傷ついた心はそう簡単に癒えないけど、ゆっくり癒えていくもの・・・。

急がずあせらず、「今被害妄想している」と気がつくことですよね。

自立も癒しへの道もそんなにスピードをだせないもの。

それさえ知っていればそんなに怖くないんですよね。

役員会とディープなお話

息子の幼稚園の役員会とランチにいってきました。

たまたま同席になったお母さんお二人と私の3人でなにやらディープな話で盛り上がってしまいました。

火付け役は間違いなく私・・・??

この席に座ったこと、後悔しないでくださいまし・・・。(笑)

一人のお母さんがこんなことをおっしゃいました。

「自分の子の性格をきちんと知ってるお母さんってなんかすごいとおもう。私は子どものことはわけがわからない。どういう性格なのか、本当はよくわからない。」

私は彼女の意見をすごくシンプルに「素直な方だな」と素敵におもいました。

もう一人の方も「夫が自分のことをうちの嫁は明るいです。なんて一言ですませたらなだな。」

とおっしゃいました。

本当にその通りですよね。

こどももきっとそうなんじゃないでしょうか?

だって、こどものことを

「うちのこは明るくていい子です。」

「うちの子は引っ込み思案です。」

「うちの子は・・・」

なんてひとくくりにはできない。

それはお母さんが

「こうあってほしい」

をこどもに押し付けているだけではないですか?

私たち人間はみんな明るい部分も暗い部分も持ち合わせ、バランスをとりながら生きているわけです。

それを「明るいいい子」といわれたらあなたはどうですか?

息苦しくなりませんか?

その枠からはみ出すことが怖くなりませんか?

私も以前親しい友人に弱音を吐いたことがあります。

すると彼女は

「そんなのらしくない」

といいました。

考えてみたら私がいつも彼女に元気をあげる立場だったので、なんだか頼りなくかんじたのかもしれません。

実際わたしって頼りないにんげんなんですけどね。(笑)

そのとき「私っていつも元気でないといけないのかな?」

とおもいました。

なんだか嫌な気分でした・・・。

人間は明るい部分もあれば暗い部分もある。わたしにもあるのにな・・・。

だから親がこどもを

「この子は明るい!」なんて一言でいってしまうよりも

「わけがわからない」というほうがもしかしたらずっと人間らしいのかもしれません。

だってこどもってさっき笑ってたのに、泣いたり、怒ったり、すねたり、甘えたり、天使なのか?悪魔なのか??

だから「わけわからん」

そして親の私たちも

「わけわからん」

存在なのかもしれません。

自分のこと、良く知っているようで実はみんなよくわかってないものです。

ただ与えられた役を必死にこなしてるだけ。

親から「明るいいい子」の役を与えられて、その役から抜け切れなくて「もう一人の自分」を押さえつけてる場合もあるんです。

だから

「わけわからん」

くらいで丁度いい。

同席した二人のお母さんの素直な意見にうれしくなった私でした。

お話に付き合ってくださってありがとう!

「わけわからん親がわけわからんこどもをとりあえず必死で育ててる」

こんなもんでどうでしょうね??

そーいやうちの母に

「あんた、犯罪者にだけはならないでね。」

といわれました。

「は?」

ってかんじでしたけど、

彼女にとって私はきっと

「わけわからん存在」

であるのかもしれませんね。(笑)