こどものこころ

こどものこころってとってもデリケートでかつわかりにくい。

かまって欲しいから意地悪したり、手伝って欲しいけど素直にいえないから強がったり。

もっとストレートにきてくれたらいいのにって思うけど、でもやっぱり親から「拒否」されるのが怖かった

りして、なかなかうまく表現できない。

そんな気持ち、大人になってもありませんか??

好きな人がこっちをむいてくれなかったら、すきでもない人と一生懸命はなして無意識で

「ヤキモチをやいてほしい」と思ったりね。

それも実は「相手の気持ちを試している」わけですよね。

こどもはそんなことを日々しているようなものです。

色んなタイプのこどもがいますが、うちの息子は恥ずかしいから自分の気持ちを言わないというより

私に察して欲しい。気持ちが強いようです。

むりやり聞き出すことは難しいので、

「なんかママにいいたいことある?おこらないから教えて」

とやさしくいわないとなかなかいってくれない。

なんだかむずかしいわ〜。

生まれてくるときに「取扱説明書」はついてなかったから、実践で育てるしかないものね。

しかしながら、自分を(親自身)良く知るとこどものこともよくみえるもんです。

私は最近息子がだいたい何をいいたいのか感じられるようになってきたので、息子の不安などは

身体で感じるようになりました。

そんなときはわざわざ「心配事があるか」を聞き出すよりも意味もなく「大丈夫だよ」と抱きしめて

あげるほうがずっと効果があることもわかりました。

もう少し大きくなったらもっと言葉で感情をいえるようになるとおもうし、今はこの動物的な

マザーリング(動物的養育活動、抱きしめたり、キスしたり

スキンシップをすること)が重要なんだなとおもいます。

言いたいことが言えないこどもってじつはいっぱいいます。

だけど、どうしていえないか考えたことありますか?

それにはちゃんと理由があるんですね。

ママが怖いから・・・だったりする。

こどもにとって親は神様のような存在。

だからこそ、「私も人間です」ってこどものきもちにそっと寄り添ってあげられればっておもいます。

ちょっと前まで私も怖いママだった気がします。(笑)




ブレーキかアクセルか

こどもって、親の人生のブレーキかアクセルかの役割をしっかりはたしてくれます。

のろのろ運転してると子どもがアクセルになってどうしても動かないといけない状態になる。

親がスピード出しすぎているとブレーキの役割で病気になったり、おかしな行動をする。

ブレーキかアクセルか。

どっちも必要。

車はボディ、運転者は霊性、そしてこどもはブレーキとアクセル。

上手に人生をコントロールするには、こどもをよくみつめること。

子どもが「イエス」というときは私たちも力を発揮できるときだ。

運転上手になれば、きっと物事もスムーズに運ぶはず。

私はアクセル人間なんで、子どもはブレーキ。

ママが早すぎるとき

「早すぎる!」

「速過ぎる!!」

って本当にいってくれます。

どもありがと。







シーラという子

シーラという子―虐待されたある少女の物語シーラという子―虐待されたある少女の物語
(1996/03)
トリイ・L. ヘイデン

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ずっと読みたかった本、やっと読めました。
で、お友達にも貸して、共感できた〜。

「シーラってわたしみたい」

そんな風に感じました。

もしかしたらみんなのなかにシーラがいるのかもしれない。

まるで今まで言えなかった思いをシーラに代弁されたような感覚でした。

私は現在、育児にかかわる仕事をしているが、愛情に飢えている子のもつ繊細さや情熱にとても

心惹かれるものがある。なぜか目を離せない、そんな感覚だ。

心の健康なひとより、なぜか癖のある人に惹かれるのはきっと私自身が心に傷をおっているから

敏感にかんじてしまうのかもしれない。

どうして心はそんなふうに感じるのか?

そんなことを日々考えている。

感情の海に飛び込んで、深い海底を覗いてみる、恐怖の先にあるもの。

それは案外シンプルなものだったりする。

今日、おともだちのSKさんと話したところ、すごーくキーワードになる言葉があった。

「誰でも耐える力はもってるけど、勇気があるかないかでまた変わってくるのにね。」

たしかにそうかもしれないな〜。

結局は勇気なのかもしれない。

シーラも自分が成長することを最後には拒まなかった。

大いなる勇気を持って、自立の道を選んだのだ。

愛情をくれる人は親じゃなくてもいい。

大人になって、愛されるようになって、いろんなことがわかってきた。

童心を呼び戻す

最近息子は生き物が大好きだ。

幼稚園から帰ってくると、近所のハーブ園で虫を探す。

バッタ、コガネムシ、蝶、だんご虫・・・あとわけのわからないものでも、とにかく動くものは全部

捕まえたがり、観察する。

昨日は蝶を捕まえて、それはそれは喜んでいました。

「ふわふわするね〜。あ〜!粉が手についた!」

なんて奇声を発しながら喜んでいました。

虫かごに入れた蝶の顔をみては、なんども「すごい〜!」といっていました。

たった一匹の蝶からこんなに感動やらコメントやらが飛び出してくるとは、こどもの心の柔軟さ、

探究心には驚きです。

いまどきアミを振り回しながら走り回る子どももずいぶん少なくなったとおもうが、こどもはそんなことが

大好きなんだなって、今も昔もこどもは変わらないんだなって、改めて思いました。

きっと変わってしまったのは大人のほう。

大人はどっから童心をわすれてしまうのだろう?

いつから大人になるんだろう?

ハーブ園を無邪気に駆け回る息子。

ハーブ園に訪れているお客さんに若干迷惑かな〜とおもいつつも意外とみんな温かい目でみてくれているのだ。

息子がハーブ園のイチゴを食べていると

「へ〜、それって食べられるんだ!」

と、おばさんたちも

「フェンネルのつぼみっておいしいんだよ〜」

なんてとってくれたり・・・。

みんなで花の蜜をすったり・・・。

「懐かしいね、昔はこんなことしたね。」

とおばさんたちもいつのまにか無邪気な顔してた。

私たちが忘れているもの、忘れたくないのに、忘れていくもの。

子どもを見ると思いだす。

わたしたちだってこどものころがあったよね。

人生は楽しいって身体で感じていたころ。

いつのまにか忘れて、お金をかせぐことばっかり考えたり、将来がわけもなく不安になったり・・・。

こどもをみてるといろんなことを思い出す。

優しい気持ち、探究心、自然がどんなに人間に優しいか。

とった虫は最後に返しておしまい。

「おうちへおかえり」

息子もいつかこの日のことはわすれるかもしれない。

それでもいいかな。

心の隅っこにしっかりと楽しい思い出を飾って、たくさんたくさん楽しい思い出をもって、

「楽しいことをするために生まれてきた」

そのことは忘れなければいい・・・。




人と人の間

久しぶりに映画館で映画をみた。

ぐるりのこと。

先週友人の身の上話を聞きに渋谷に出たとき、ふと目に留まった映画のポスター。

これ、見たいな〜。

なんとなく感じた。

傷ついている友人を隣に、なにかを感じた。

リリー・フランキー主演ね〜。

気になりつつ、2週間。

この週末に見に行くことができた。

パートナーを誘ってみたが、「え〜、なんかおもしろくなさそう〜」

といわれた。

べつにいいけど・・・。

結果はけっこうよかった。いや、かなりよかったとおもう。

人間はみんな人それぞれの傷を負って生きている。

その傷は消えることはないかもしれない。

だけど、人とのつながりをもてたとき、なんとなく自分に自信がわいたり、生きていくことが

辛くなくなるのかもしれない。

主演のカナオのもっさりとしたあたたかさや、人を責めたり、さばいたりしない性格が妻の心を安心

させたのかもしれない。

人間って、「私こんなに弱いの。」って全部さらけ出しても相手が逃げないとき、初めて安心するのか

もしれない。

人は一人でなんかいきられない。

人と人の間に絆があるとき、私たちは本当の意味で生きてることを実感できるのかもしれない。

苦しいことも、うれしいことも、いろんなことがある人生だから。

ちゃんとすることだけがすべてじゃない。

映画館をでてからパートナーとあーでもないこーでもないといいながらスペイン坂を下る。

「ぐるりのことっていったいなんのことだろう?」

そんなことを話していた。

きっと答えはなくてもいい。

ただ話している、そういう感覚がとてもすきなのだ。

一つの答えが人生に必要だろうか?

たぶんいらないとおもう。

みんな人それぞれ、それでいいよ。

繊細なこども

うちの息子は私によく似て実に繊細だとおもう。

ちょっと前までは「なんつう扱いにくいこどもじゃ」

とおもっていたけれど、最近はそんな「感じやすさ」をかわいいとおもう。

昨日車に乗っていたら、夕日がとてもきれいだったので、車を止めてふたりで夕日が山に吸い込まれ

ていく様子を眺めていた。

「キレイだね〜」

ゆっくりと大地に吸い込まれていく。

車の中でかかっていたCDがたまたまアンビエントな感じであったのだが、それを息子は

「夕日にぴったりの音楽だね」

と4歳児とは思えない発言。

夕日が沈んだ後も、空の色や月の話で帰り道は盛り上がった。

「太陽が疲れたら、月の時間がくる。」

「太陽は神様の場所にいったの?」

「神様はどこにいるの?空?土のなか?」

そんないろいろな発想がおもしろい。

現実主義者はこんな話をどう思うかはしらない。

ただ私たちは、地球にうまれてきた小さな生物として、人生を謳歌しているのだ。

本当やうそ、いい、悪いで何もかもを分けてしまったら人生はなんてつまらないのだろう・・・。

本当と、うその狭間、みえるものとみえないものの狭間を楽しめたら人生はずっと楽しい。

そんなことを息子は私に優しく教えてくれる。

フランクルも夜と霧のなかでいっていた。

「過酷な状態でも生き延びられるものは、決して体力があるものではない。ユーモアがあり、小さなことにも感動できる力なのだ。」

フランクルもアウシュビッツ収容所で過酷な労働に耐えながら、夕日をながめては「美しい」とおもって

いたと読んだ。

人生の中でなにがあれば幸せなんだろうか?

お金があれば幸せなんだろうか?

人の価値観は人それぞれだ。

感受性が強いと弱いのだろうか?

みんな強くないといけないのだろうか?

いろんな疑問があるけど、私は息子の感じ方をいつも肯定している。

「怖い」と感じることは悪いことではないし、みんながみんな同じ勇気をもてるわけではない。

かつて私自身は自分の弱さに気がつかないで、ずいぶん自分に無理をかけてきた。

自分の繊細な部分を隠して、勇者のふりをしていた。傷つきやすさを隠そうと、強がっていたのかもし

れない。そんなことをすれば自分が自分を傷つけるとは知らなかったのだ。自分としては自分を守って

いるつもりだったのだ。

息子をさずかり、自分のこともよくわかってきたのだ。

息子を愛することは親の私自身を認め、愛すること。

こどものなかにあるたくさんの感情を自分もみつめること・・・。

なかなか難しい。

でも、できるのだ。

同じ空を見上げて共に感じてくれる家族に出会えたことを感謝せずにはいられない。

親にさせてくれてありがとう〜!





愛情と冷静さ

人間はどうしても同じ間違いを繰り返しがちです。
でも私は繰り返していいと思います。
繰り返すことで、また軌道修正できるとおもいます。

私も何度も同じ間違いをくりかえして、「またやったわ」「え?またまた?」「懲りないわね」
なんて自分にいいきかせながらもっと「心の成長」をしたいと常に願っています。

人の心の成長はまず、テーマがみんな違うこと。
みんな「あること」を学ぶために今の人生があるわけで、みんな同じ宿題をやってるわけではないということです。ですから周りの人と価値観が違ったり、性格が違ったりするのもうなずけませんか?
みんな別々の宿題をやりながら、でも同じクラスで勉強しているようなものです。
隣の人からヒントを得ることもある、つまずいたら隣の人に聞いてもいいのです。それが学習の上でのポイントではないかとおもいます。
宿題は違っていても、「心の成長」といういみではみんな同じクラスメイトであり、心から成長のプロセスを学んでいる。だからいつも共感したり、意見をいいあったりします。

カウンセリングを学んでいると「ロールプレイ」のペアになった人は必ず自分にとって学びになるひとです。それが自分にとっては気分の悪い人でもです。人生はいつも好きな人とばかり過ごせるわけではない。そんな時自分が冷静にどうでるかで次のステップにいける気がするのです。

私の場合、いつも自分がおさめたほうがよいエゴをもつ相手と遭遇します。もしくは自分のエゴを引き立てる人にも遭遇します。そこでいかに冷静に自分を見られるかがポイントなんですが、なかなかできません。

具体的に私のエゴは何を求めているかと申しますと、「同情を集める」ことと「自分の価値観を相手に押し付けてしまう」というエゴです。
同情を集めたいというエゴは子ども時代にうけた心理的な問題のために「私ってかわいそうでしょう?」と無意識でひとから注目されたいというエゴがあるのです。
そのエゴは私の弱い部分を増徴するし、人を簡単にだませます。そうやって無意識で「自分の傷」をみせて、「注目をあびよう」とするのがエゴ。
私はなんどもそれを理解しながら、また同じ間違いをしているわけです。

「こりないな〜」

とおもうけど、自分の中の子どもに対してもう少し敬意を払うことでおさまるかなっておもっています。
「そんなに同情あつめなくても、あんたは頑張ってきたから、私は認めてる」と大人になった私自身が私の中のこどもを抱きしめてあげることで同情をえようとするエゴは消えてなくなるとおもいます。

以前ロールプレイでご一緒した方は非常に私の苦手なひとでした。
しかしながら苦手なひとから学ぶことっていっぱいある。
「自分にもこんなところはなかろうか?」って冷静に自分をみつめるチャンスになるわけです。
相手が突っ込んできたところは、私が一番触れて欲しくないところでした。そんなときどうしますか?
私はどこかでその人責めていました。

「傷つけられた!」と。

そうかんじるのであれば、冷静に相手に「私はこう感じる」と伝えればよかったのですがそれができなかっただけでなく、相手が欲しがっているものさえ、私はいやいや与えているのです。
嫌なら答えなきゃいいのに。相手が自分の価値観をむりやり押し付けてきたとき、「傷つけられた」とかんじたらそれは「まだまだじゃのう」ということです。かつては自分だって「自分の価値観が一番だ」と思っていた私ですから、そんな私が彼女を責めることはできない。彼女は彼女なりのプロセスで学んでいるのですから。まだロールプレイが浅いこともあって、やり方がわからないかもしれなと感じました。私はそれを伝えるべきでしたが伝えることができませんでした。同じクラスメイトであれば伝えるべきでした。それをしないで「ただ恨む」ことは幼稚なのです。
同じカウンセリングを学ぶ立場としては、「伝えること」ととても大切なのですが。
まだまだ言いたいことをこらえる癖もなおっていないものです。
私のエゴはそのあと、冷静な私を食い尽くして、また「かわいそうな私」をつくりあげてしまったように思います。

それからの私はなかなか冷静さを保てなかった。
ですから問題がおこると冷静に対応するどころか、エゴが同情をもとめて騒ぎ出すようになってしまったのです。私はよくよく自分の状態を冷静にみることが苦手だったので、毎回宿題がだされます。
たいしたことではないのに「騒ぎ出す自分」を納めるのはまぎれもなくもう一人の私、冷静さを愛情がないとできない。
自分に対する愛情です。その冷静な判断こそが自分の軸を強くし、困難があって揺れたとしても対応していく勇気をもてるのですから。

2週間あまりの時間を経て、再びよい学びがありました。

私は自分の問題を冷静に解決することができたし、もう一度軌道修正もできました。
こうして私はしっかりと学んでいける。
傷つくことを恐れてはなにもはじまらないし、やることをやらないでいじけているだけでもいけない。

「冷静さと自尊心」はなんと自分にあたたかいのかな〜。
とかんじました。