赦すことの難しさ
ゆるすってなんて難しいんだろう!
私は常に自分も人も赦しているつもりであるが、まだまだ自分の腹の中、いや無意識に怒り、悲しみがあることに気がつかされた。この気持ちをもっているかぎりはカウンセラーになることもできないとおもう。なぜなら「投影」(心をなにかに映し出すこと、物や人など)をして、苦しんでしまうからだ。
私は実にいろんな感情の引き出しをもっている。しかし、私の中で一番強い感情は常に怒りであった。その怒りこそが自分の心を支配し、怒りこそが自分を傷つけ、他人も傷つけてきた。怒りのエネルギーをなにか生きる糧にしていた。その怒りはどこからきたのか、ずっとわからなかった。ただ、いつも私は怒っていたし、何かが不満で人を赦せなかった。
その気持ちの根源を私はゆっくりと知ることになった。
そう、自分がその怒りで押しつぶされ、コントロールできなくなり、初めて自分の内側にむかって助けをもとめた。そう、自分の中にしか答えはないから。
私の無意識の中には地雷のようにいろんなところに、怒りを眠らせていた。
私はひとつづつ、その地雷の始末を始めた。始末をするときはかならず「爆発」をしなければならず、
「爆発」についていくだけの時間、体力、支え、勇気、そして自分への慈しみをわすれてはならなかった。ひとつひとつ、「この怒りはあのときの怒り」なんだ。と思いながら「爆破」します。かならずものすごい感情が自分から飛び出してくる。それに付き合い、感じて、手放す。するとそれでもう二度と苦しまない。だけど、その一瞬の爆破を恐れて、私たちはみんなしりごみしてしまう。
私が地雷の始末をしているとき、パートナーはただ冷静に私をみつめていただけだ。
なにもしなかった。だだ懸命に話を聞いてくれた。肯定も否定もしなかった。身体がぼろぼろになって(本当になります)気管支炎とアトピーが異常にひどくなり、熱が出たり、眠れない日々が続いた。
自分の心のお掃除がこんなにもつらいとはおもわなかった。
ひたすら、こどもにだけは悟られないようにしていた。(きっとわかっていたとおもうけど)
母親とは心から母親でいるひつようはない。どうしても優しい母親でいられないときは自分にも時間を与えるべきだし、優しくできないときは「仮面母親」だっていい。そのときだけでも「母親を演じる」のだ。あとは自分でいてもいい。
24時間母親でいることはだれにもできないから。
息子とパートナーにはきっと迷惑をかけたと思う。その間、アロマテラピーの施術をうけたり、カウンセリングにいったり、友人に話したり、実に多くの人の愛情にふれながら「地雷」の始末にはげみました。そして、もう地雷はないかなっておもっていたところ・・・。
まだありました・・・。それに気がついて。
そうか、まだありましたか。
ではでは始末しましょうね。
でもね、何回もやってるもんで、お手のもの。
もうあんまり被害もなく、爆発寸前で逃げて、遠くからみてることだってできるから。(笑)
さて、どうやってやるか教えます。
「マイナスの感情」を感じたら
もう一度感じる。
「私はこのことで怒っていた」と自覚します。
ノートに書いてもいい。
声に出してもいい。
そして、涙がでたり、怒りがわいてくるかも・・・。
しっかり、感じて、そしてゆっくり呼吸して・・・。
「大丈夫、自分でいてもいい。」
と唱えます。
私はいつも
「私は愛されている」
とか
「私は私でいい」
と唱えます。
生まれてから、もしかしたら生まれる前から私は赦す」ことが苦手だった。
だから神様はあえて私を母の元におくったのでしょう。そして、私は多くの怒りを母からもらい、多くの苦しみを引き受けて、必死で逃れるためにここまできたのかもしれない。
「誰かが悪い」わけではない。
ただ「学ぶ」ために生まれたから、
楽しむために生まれたから、
自分の苦しみは自分で取り除いていく。
自分の人生のテーマについて気がついていけばいいだけです。
私のテーマは「赦し、と愛」
自分を赦すこと、相手を赦すこと、そしてこの怒りの源になった人を赦すことです。
私のようなひとだけではなく、
「はっきりいうこと」が苦手だったり
「厳しさ」を持つことができない人もいる。
そういうひとは「伝えること、勇気」を学ばなければならないかもしれない。
どんな人生でも「学ぶ」ことで癒されていく。
自分の腹の中にある、傷ついた私を掘り起こすことから。
いつもどんなときも神様は見放さないでいてくれるものですね。
無意識の世界は広いから、まだまだ地雷は眠ってる。
また出会いがあって、気がつくのかもしれない。
いつか誰でも赦せる日がきます様に。
私は常に自分も人も赦しているつもりであるが、まだまだ自分の腹の中、いや無意識に怒り、悲しみがあることに気がつかされた。この気持ちをもっているかぎりはカウンセラーになることもできないとおもう。なぜなら「投影」(心をなにかに映し出すこと、物や人など)をして、苦しんでしまうからだ。
私は実にいろんな感情の引き出しをもっている。しかし、私の中で一番強い感情は常に怒りであった。その怒りこそが自分の心を支配し、怒りこそが自分を傷つけ、他人も傷つけてきた。怒りのエネルギーをなにか生きる糧にしていた。その怒りはどこからきたのか、ずっとわからなかった。ただ、いつも私は怒っていたし、何かが不満で人を赦せなかった。
その気持ちの根源を私はゆっくりと知ることになった。
そう、自分がその怒りで押しつぶされ、コントロールできなくなり、初めて自分の内側にむかって助けをもとめた。そう、自分の中にしか答えはないから。
私の無意識の中には地雷のようにいろんなところに、怒りを眠らせていた。
私はひとつづつ、その地雷の始末を始めた。始末をするときはかならず「爆発」をしなければならず、
「爆発」についていくだけの時間、体力、支え、勇気、そして自分への慈しみをわすれてはならなかった。ひとつひとつ、「この怒りはあのときの怒り」なんだ。と思いながら「爆破」します。かならずものすごい感情が自分から飛び出してくる。それに付き合い、感じて、手放す。するとそれでもう二度と苦しまない。だけど、その一瞬の爆破を恐れて、私たちはみんなしりごみしてしまう。
私が地雷の始末をしているとき、パートナーはただ冷静に私をみつめていただけだ。
なにもしなかった。だだ懸命に話を聞いてくれた。肯定も否定もしなかった。身体がぼろぼろになって(本当になります)気管支炎とアトピーが異常にひどくなり、熱が出たり、眠れない日々が続いた。
自分の心のお掃除がこんなにもつらいとはおもわなかった。
ひたすら、こどもにだけは悟られないようにしていた。(きっとわかっていたとおもうけど)
母親とは心から母親でいるひつようはない。どうしても優しい母親でいられないときは自分にも時間を与えるべきだし、優しくできないときは「仮面母親」だっていい。そのときだけでも「母親を演じる」のだ。あとは自分でいてもいい。
24時間母親でいることはだれにもできないから。
息子とパートナーにはきっと迷惑をかけたと思う。その間、アロマテラピーの施術をうけたり、カウンセリングにいったり、友人に話したり、実に多くの人の愛情にふれながら「地雷」の始末にはげみました。そして、もう地雷はないかなっておもっていたところ・・・。
まだありました・・・。それに気がついて。
そうか、まだありましたか。
ではでは始末しましょうね。
でもね、何回もやってるもんで、お手のもの。
もうあんまり被害もなく、爆発寸前で逃げて、遠くからみてることだってできるから。(笑)
さて、どうやってやるか教えます。
「マイナスの感情」を感じたら
もう一度感じる。
「私はこのことで怒っていた」と自覚します。
ノートに書いてもいい。
声に出してもいい。
そして、涙がでたり、怒りがわいてくるかも・・・。
しっかり、感じて、そしてゆっくり呼吸して・・・。
「大丈夫、自分でいてもいい。」
と唱えます。
私はいつも
「私は愛されている」
とか
「私は私でいい」
と唱えます。
生まれてから、もしかしたら生まれる前から私は赦す」ことが苦手だった。
だから神様はあえて私を母の元におくったのでしょう。そして、私は多くの怒りを母からもらい、多くの苦しみを引き受けて、必死で逃れるためにここまできたのかもしれない。
「誰かが悪い」わけではない。
ただ「学ぶ」ために生まれたから、
楽しむために生まれたから、
自分の苦しみは自分で取り除いていく。
自分の人生のテーマについて気がついていけばいいだけです。
私のテーマは「赦し、と愛」
自分を赦すこと、相手を赦すこと、そしてこの怒りの源になった人を赦すことです。
私のようなひとだけではなく、
「はっきりいうこと」が苦手だったり
「厳しさ」を持つことができない人もいる。
そういうひとは「伝えること、勇気」を学ばなければならないかもしれない。
どんな人生でも「学ぶ」ことで癒されていく。
自分の腹の中にある、傷ついた私を掘り起こすことから。
いつもどんなときも神様は見放さないでいてくれるものですね。
無意識の世界は広いから、まだまだ地雷は眠ってる。
また出会いがあって、気がつくのかもしれない。
いつか誰でも赦せる日がきます様に。
COMMENTS
No title
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確かに強い怒りをもっているほうがまだ救いがあるようにおもうこともあります。無気力感のほうがずっと辛い。
学べるだけ幸せなのかもしません。
与えられたもののなかから何を学ぶか、なにを拾うかは私たち自身ですね。
学べるだけ幸せなのかもしません。
与えられたもののなかから何を学ぶか、なにを拾うかは私たち自身ですね。
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「気付き」には、「救い」がある。
「愛」へと繋がる可能性がある。
だからこそ、そのような意味でこそ、「学ぶこと」は大切なんですよね。
「学ぶ」とは、「気付き」を求める心の在り方なのだと思います。
怒りもまた、それが深い感情であるからこそ、
「学び」の機会を与えるものになり得る。
頭で考えているだけでは、決して「学び」には至れない。
「真の学び」へと導くために、何ものかが「怒り」を与えている、
本当に「学ぶ」まで繰り返し与えている。
そんな気がするのです。